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水岡俊一(みずおかしゅんいち)

出生から小学校4年生まで

私は、1956(昭和31)年6月13日、城崎郡竹野町で生まれました。
父は、私が生まれたころは小学校の教員、その後県立高校の教員になりました。母は、祖父の営んでいた綿の打ち直し業や精米業などの手伝いやらで家計を助けていたようです。
家族は、祖父母、父母、3歳下の妹と7歳下の弟の7人家族でした。

幼稚園時代、家からの通園は、4km余りありましたので、子どもの足では、1時間以上かかりました。冬場の雪の日には、しんどい思いをしたことを覚えています。しかし、近所の子どもたちとの集団通園だったので、年長者に助けられながら、無事に通園することができました。丈夫な体もこのときにその基礎ができたように思います。

竹野小学校は、学年2クラスと小規模でしたので、和気あいあい、竹野川や竹野浜で泳いだり、鮎つり、アジつりなど学年を超えた交流のなかで、毎日が、「自然学校」でした。私は、ガキ大将でも腕白でもなかったし、どちらかというと、おとなしいほうだったと思います。

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小学校高学年から中学時代

4年生の10月に引っ越しし、豊岡小学校に転入することになりました。新しい家は、豊岡市桜町、豊岡高校のすぐ近くでした。当時は畑ばかりのところで、いわゆる新興住宅地でした。
地域の方たちには、本当に温かく受け入れていただきました。 私は、音楽が好きだったので、鼓笛隊に入りました。小太鼓が専門でしたが、背が高かったためか6年生のときには指揮者に抜擢されました。また、児童会活動も大好きでよく活動していたので、友だちのすすめもあって、児童会長も経験しました。

豊岡南中学校では、バスケット部に入部しました。結局、3年間、レギュラーにはなれず、ずっと控え選手でした。でも何かがんばれることはないかと家で腕立ふせ100回、腹筋100回など、自分にノルマを課して、体づくりをしていました。
南中バスケット部は、但馬地区の強豪でよく県大会にも出場しました。真新しい神戸の県教育会館に宿泊し、王子体育館や育英高校の体育館での試合に行ったことを覚えています。
控え選手としては悔しい思いもしましたが、いまでは、いろんな意味でいい体験だったと思っています。

オーディオにも興味があり、放送部にも入っていました。オープンリールのテープレコーダーでラジオ放送からダビングをよくしました。フォークソング系、吉田拓郎や南こうせつ、PPMやブラザーズフォアなどを深夜放送で聴いていました。

また、写真にも凝っていました。スポーツをとるのが好きで、体育祭などで記録写真を多くとりました。父がカメラ好きで、家の物置を暗室にし、現像も自分でやっていましたから、見よう見まねで私もできるようになっていました。

3年生のとき、生徒会長になりました。生徒会で「頭髪自由化問題」を論議したことを覚えています。私は、丸坊主でも長髪でもどちらでもいい、それは自分たち自身が決めて自分たち自身が責任を持つことであって、校則で縛られるのはおかしいと考えていました。結局、自由化はなりませんでしたが、結果よりも、このことを生徒自身が考え議論できたことに意義があったと思います。

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県立豊岡高校時代(1972年〜)

高校は地元の豊岡高校に進学しました。学業成績は、入学したときにはそこそこよかったのですが、クラブ活動をはじめ、勉強以外のことに時間を割きすぎたので次第に下がっていきました。とにかく毎日が寝不足状態で当然といえば当然です。
当時、同じ豊岡高校の教員をしていた父も最初は心配していたようですが、そのうちにあきらめたのか、口うるさく言わなくなりました。

クラブは、放送部で、みんなで番組を制作し、コンテストに出品したりしました。
高1の10月、豊岡高校が不審火によって消失しました。家が近かったので、この家も燃えてしまうんではないかと心配するほどの大火でした。父と一緒に学校に駆けつけて、放送部の機材を運び出そうとしましたが、危うく煙に巻き込まれそうになりました。“死ぬかもしれない”との恐怖心を生まれて初めて体験しました。

また、1年生のなかばから音楽部にも入りました。声が高かったので、テナーのパートを歌っていましたが、2年生になると、指揮者の役が回ってきました。高校の合唱ともなるとその難しさは半端ではなく、毎日勉強そっちのけで譜面に没頭していました。しかし、力のなさに自分ながらあきれ、悩みつづけていました。 とうとう、あるコンクールに出場した直後、仲間に「辞めたい」と告げました。自分としてはもう限界だと判断したのです。しかし、仲間からの理解が得られず、ずいぶん部員を困らせました。このときばかりは自分でもどうしようもなくて、ひとりになると泣けてしかたがありませんでした。部の仲間には迷惑をかけ、本当に申し訳なかったと自責の念でいっぱいです。
このときの「挫折」は、私の人生の中でもっとも大きなものでした。いまでもふっと思い出し、せつない気持ちになることがあります。

父に内緒で、オートバイの免許を八鹿の試験場にとりにいきました。学校で禁止されていたわけでもありませんでしたし、行動範囲をひろげたかったのです。祖父の助けを得て、中古のオートバイ(125cc)を買いました。このバイクで、友人と、あるいはひとりでよくツーリングに行きました。

小学校の6年生から続けていたボーイスカウトの活動もシニアスカウトになり、サイクリングやキャンプなど楽しい思い出がいっぱいあります。
まあ、こんなふうに高校時代は、勉強以外のことに熱が入るタイプの人間だったと思います。

幼いときから、将来の夢はパイロットになることでしたが、小学校のときから視力が悪く、メガネをかけていましたのであきらめてしまいました。
教員への道を進むことに決めたのは、やはり教員であった父の影響が強かったと思います。しかし、裕福な家でもなく、「とにかく国公立大学に浪人せずに現役で合格しなければ」との大学受験のプレッシャーは相当なものがありました。ですから、入試対策として、苦手な英語の採点の比率が低いところを探すなど、いろいろ思案しました。
結局、奈良教育大学の特別理科教員養成課程に合格しました。鳥取大学の教育学部(小学校教員養成課程)にも合格しましたが、自分では小学校の教員は向いていないと思って、奈良教育大学への進学を決めました。両親は、当然のこととして、豊岡から近い鳥取大学に行くものと考えていたようですが、しぶしぶ認めてくれました。

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国立奈良教育大学時代(1975年〜)

奈良で初めての一人暮らしが始まりました。家庭教師と塾の講師のアルバイトをしながらの生活でした。
その後、妹が大阪の専門学校に入ったので、妹とふたりで、新大宮のマンションに移りました。両親にしてみれば、娘に一人暮らしをさせるのは心配だったのでしょうし、一緒に住めば、逆に、妹に私の監視をさせられると考えたのではないかと思います。

大学に入学後、まもなく化学専攻の先輩に連れられ、水泳部へ入り、来る日も、来る日も泳いでいました。国公立大学にはまれにみる50mプール(進駐軍の置き土産)が、自慢の水泳部でしたが、成績はいまひとつでした。
真っ黒に日焼けをしながら平穏な学生生活をおくっていましたが、ある時を境に、私はどん底に落ち込んでしまいました。
私は、理科の教員をめざす課程にいたので、当然ながら専門の有機化学の他に生化学も必修単位としてありました。
ところが、変人で名物教授である担当教授は、生化学の授業をするはずなのに、地学としか思えない、「南中する太陽と、東の空から出てくる満月の大きさが違って見えるのはなぜか、考察せよ」との課題リポートで、学生を苦しめていたのです。百歩譲って、同じ理科だからと、私もとりくんでみましたが、要はリポートにイチャモンをつけて喜んでいるだけの教授だったわけです。
どんなリポートを書こうと、イエスマンにならないかぎりは、リポートが合格しないというしくみに、私は、断固として「道理にかなわない」と真っ向から反論したのです。
担当教授は、「お前にだけは、絶対に単位をやらん!」と断言し、私の卒業はかなわぬ夢となり、2年生の後期は途方にくれていました。
ある日、親友のひとりが心配してくれて、技術科の教授に相談してくれました。
機械専攻の岡教授は広い心で「やる気があるなら僕のところに来るか」と、転科試験をすすめてくれました。
私は、一筋の光を見出したような気持ちでその話を聞き、早速、転科試験のための準備に入りました。外国語、一般教養2科目、専門教科2科目の試験だったと覚えていますが、それはそれは、約1年の間、よく勉強しました。おかげで、翌年、晴れて技術科の3年に転科でき、合計5年間の学生生活を終えました。
今思えば、もっと他の方法はなかったのかなと思うところも若干はあるものの、やはり当時の私には、意地を貫くことが、大切だったのだと思えてなりません。
残念ながら若くしてお亡くなりになられた岡教授にいつも感謝しています。

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新任教員時代(1980年〜)

兵庫県の教員採用試験に無事合格し、三木市立志染中学校に技術・家庭科と理科の教員として赴任することになりました。
新任教員として張り切って教壇に立ち、素朴で、はずかしがりやで、そして明るい子どもたちと一緒に毎日を必死で頑張っていました。校外学習にも積極的にとりくんでいたら、とにかく新しいとりくみに拒否反応を示す校長から、体験学習を中心とした新しいプログラムにブレーキがかかり、それに反発し、衝突してしまいました。1年目にして、自ら異動願いを出しました。

しかし、校長の立場からすると経験の浅い新任教員の行動を心配するのは、ある面当然であり、もう少し、校長とゆっくり話し合うことができればよかったなと、後になって思いましたが、その時には、残念ながらすでに亡くなられていました。

1年後、三木市立星陽中学校に転勤しました。教師としても人間としても、優秀で、本当にすばらしい先輩たちに恵まれました。
教職員組合活動に積極的にかかわるようになったのも、先輩たちの影響です。ある日、先輩に呼ばれ、校務分掌表をまったく一から作り直す作業をしたことがありました。なぜ中間管理職がいらないか、教職員みんなが力を発揮できる分掌表はどうあるべきかを語り合いながらの作業で、とても感動したことを覚えています。早速、分会の青年部での活動が始まりました。

あるとき、職員室の回覧で、海外派遣教員募集の文書がありました。できれば、一度経験してみたいと思いましたが、よく見ると、「教員経験概ね5年以上」「小学校教員の免許を持っていることが望ましい」との記述があり、すぐの応募は無理だけど、将来の目標として努力してみようと考えました。それで、仏教大学の通信制で小学校の教員免許をとることにしました。

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結婚・家族

妻とは、大学のときからの付き合いです。水泳部の先輩が彼女と同級で友人だったことから、ひょんなことで知り合いました。宮崎県出身で家政科の先輩。彼女は卒業後、東大阪市の中学校で、家庭科の教師として勤務していました。
私が新任教員としての生活が始まって2ヵ月後の6月に結婚しました。妻は結婚を期に退職しました。

新居は、三木市大村のアパート(文化住宅)でしたが、翌年、長女の誕生を前に、神戸市西区(当時は垂水区)桜ヶ丘の市営住宅に入ることができました。

2年間、ここで生活し、応募した西区春日台の宅地募集に当たったので、一念発起、長期ローンを組んで家を建てました。当時の西神ニュータウンは、まだ地下鉄も開通していなくて、山を切り開いた不便なところでした。その後、長男も生まれ、経済的には決して楽ではありませんでしたが、幸せな家庭を築くことができました。

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海外派遣教員(1986年〜)

教員生活も5年が経ち、小学校の教員免許も取得することができ、また、子どもたちも4歳と2歳になり、ようやく海外派遣教員に応募する条件が整いました。1985年夏に初挑戦したところ、運良く合格し、1986年4月から3年間、インド・ニューデリーの日本人学校での勤務が始まりました。
ニューデリーには、当時、約500人の日本人が在住しており、小中あわせて約100人の子どもたちが登校していました。
ニューデリーでの出来事やそこで感じたり、思ったりしたことを話し出すとキリがありません。

そのなかで強烈に印象に残っているのは、地元の学校との交流や、街中で見かけるインドの子どもたちの目の輝き、純粋でそれぞれの将来の希望に胸を膨らませて生き生きとしている姿です。

慣れない外国の勤務は、派遣された私たちにとって、大変なストレスを伴い、3年間、文字どおり歯を食いしばって働きました。そんな中で、ニューデリー在住日本人の若者グループを結成し、その名は“ピーコック会”、月1回お互いの家に集まり、楽しい話をしてはげまし合いながら、つらい生活を乗り越えたことは一生忘れることのできない思い出になっています。

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兵教組・学校厚生会・教育文化研

3年間のインドでの生活が終わり、原籍校である三木市の星陽中学校に戻りました。先輩の先生が、地区専従をされていたので、組合の仕事もみんなで交替でやろうと決めていたことから、翌年から兵庫県教職員組合(兵教組)の東播地区専従として2年、それから兵教組本部専従役員として3年、組合活動に専念することになりました。

その最後の年に、阪神・淡路大震災が起きました。避難所になった学校現場の支援のため、とにかくじっとしていられなくて、毎日を必死で動き回りました。豊岡の知り合いのオートバイ販売店からバイクを3台買い入れ、神戸に運んで仲間とともに行動しました。

また、学校厚生会に勤務(次長)し、福祉厚生部、電算室、信用部で働きました。
最初の年は、震災で保護者を亡くした子どもたちの支援のための基金=わかば奨学金の設立、運営にたずさわりました。在任中の5年間で、学校現場では決して得られない感覚や、特に信用部では、バブル崩壊後の資金運用の難しさを経験しました。資料作りにインターネットを駆使し、情報を集め、それを分析し、ハイリターンの裏には、ハイリスクが必ず存在することを実感しました。

2000年4月からの2年間、兵庫教育文化研究所の事務局長としての仕事も私に大きな経験となりました。
この研究所で先輩の皆さんが築かれた優れた教育実践を数多く学ぶことができました。
また、震災に関する資料を集め、専門の資料室を作りました。あの悲惨な状況と、そこから多くの人々が協力し合い、助け合い、復興への道を切り開いていったようすを記録することの大切さを痛感しました。あのような災害が二度とあってはならないと思いますが、震災体験を風化させず、貴重な資料を活用して、語り続けていきたいと思っています。

そして、兵教組の本部執行部として三役の一角を担う書記次長にとの話がありました。一度は、私のようなものには務まらないと思いましたが、新しい上着を着もしないうちから否定するよりも、その服に合うよう自分にノルマを課そう、努力してみようと引き受けました。
それが、1年半たって、参議院議員選挙に立候補することになろうとは、本当に思いもよらないことでした。

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参議院選・新たな挑戦(2003年〜)

2003(平成15)年7月に本岡昭次さんが、来年の参議院議員選挙に出馬せず、次の世代にバトンタッチをしたいと表明されました。

本岡さんは1980年、私がはじめて教壇に立った年に初当選されて以来、いつも私たち教職員の身近な存在でした。教育現場や勤労者の声を代弁し、人権、福祉問題にも活躍されてきた本岡さんの引退など考えていませんでしたから、本当に驚きました。
民主党兵庫県連が中心になって、本岡さんの後継者選びが始まりました。各方面に打診をしたようですが、最終的に、本岡さんの出身である教職員組合で検討して頂きたいということになったのです。

そして、気が付いてみれば、いつのまにか私が選考協議の俎上に上がっていたのです。「青天の霹靂」とは、まさにこういうことをいうのでしょう。
話をすすめるうちに、「これは、もう後戻りできない。腹をきめるしかない」と決心しました。

しかし、妻をはじめ家族の了解が得られるかどうかが心配でした。妻もあまりにも突然のことでビックリしたのでしょう。「私と離婚してでも立候補するつもりなの?もう決断しているわけ?」と厳しく迫られました。話し合いをすすめるなかで、息子が「お父さんにとって、その仕事が本当にやりがいのある仕事なら、そしてやってみたいと思うなら手を上げるべきだ」と言ってくれて、妻もついには私の立場を理解してくれました。

本岡さんの会見から約4ヵ月後の11月25日、今度は、私自身が記者会見の場にいました。
「世の中の不合理、不公正によって、『これ以上子どもたちを悲しませてはいけない』という思いを原点に、その時から私の新たな挑戦が始まりました。働く者、高齢者、障害者の方々を含め、弱い立場の人たち、市民の声を国政に届けるために―」・・・・・

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そして、選挙戦へ(2004年~)

何もわからないまま半年に及ぶ選挙準備活動を経て選挙選に突入しました。とにかく無我夢中でした。自分でもおどろくほどハードなスケジュールを夢遊病者のようになってこなしていました。私の健康管理に神経をすり減らしながら頑張ってくれた妻や、息子のためにと自分たちでできることを模索しながら知人宅を訪問したり、手紙を書き続けてくれた両親の苦労に頭が上がりません。

結果は幸運にも初陣を飾ることができました。910,114票の得票を「悔いなし、イイヨ!」と兵教組書記長の泉さんが読み替えてくれました。本当に多くの方々に支えていただいたと思います。
しかし、私の見えないところ、知らないところでもっと大勢の方のお世話になっていたと思うと、その期待にどう応えたらいいのか、未知の世界に飛び込む不安とが重なり、耐え難い緊張感に襲われました。

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1年生議員の奮闘記

国会での活動が始まって、自分では自然体のつもりでいましたがしばらくは肩肘を張りすぎてから回りしていたかもしれません。
しかし、秋の臨時国会で総務委員会と災害対策特別委員会で質問の機会を与えられ、公務員制度問題や台風23号被害対策についての質問を経験するとようやく落ち着いてきました。
2年目、3年目と質問回数も大幅に増えましたが、今は予算委員会の理事の立場もあって少し減っています。しかし、予算委員会の質問予定者との質問内容の打合せなど裏方の仕事や理事懇談会での他党理事とのやり取りなど初めての経験を積んでいますし、民主党の仲間とともに議員立法での法案提出にも力を注いでいます。「被災者生活再建支援法改正案」は成立しましたし、「高校無償化法案」など多くの法案を提出しています。

また、2007年は党県連の副代表と選挙対策委員長を兼任し、統一地方選、参議院選挙に取り組みました。地方選では躍進を果たし、参院選でも県連代表の辻泰弘さんが100万票を越える得票を得て、比例の皆さんと共々に参議院での第一党となる大きな勝利を得ることができました。

このように1年ごとに委員会や党での新たな役職や任務を与えられています。新しい体験もあり、苦労することも多いですが、何事も経験とがむしゃらに頑張ってきました。

議会での活動の様子を選挙民に報告することは議員の大切な責任であると私は考えています。まだまだ充分ではありませんが、年2回、4ページ仕立ての機関紙「オンライン」を中心に、議事録を完全掲載した「国会レポート」、速報性のあるA4版チラシ「オンラインプラス」を発行し、メールマガジンとして「オンラインメール&ファックス」も現在では月2回程度発信しています。また、100回の国会報告会(ミニ集会)と1000回の街頭演説を次期選挙までにやり遂げることを自らに課した活動を今、続けています。

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そしてこれからも・・・、私の決意ー。

私は、中学校の教員として、子どもたちの姿を通して、教育のことはもちろんのこと、親や家庭の問題、雇用や地域の問題、さらには年金・福祉の問題、平和の問題など、子どもたちを取り巻く環境から学びながら、その問題の解決のために真剣に取り組んできました。

また、インドのニューデリー日本人学校の海外派遣教員としての経験から、これからの日本は、世界、特にアジアの人びとと力を合わせ、世界の平和のために、国連中心にこれまで以上に貢献するべきだと考えてきました。

私は、国民に痛みだけを押し付け、敗者や弱者を切り捨てる競争原理中心の政治、「弱肉強食」の政治を許しません。強いものだけが生き残っていく今の社会の不合理、不公正を是正し、公平・公正な、さまざまな人たちが共に生きることができる、「誰もが希望をもてる社会」をつくり上げていくために、働く者、生活者の代表として、これからも仲間とともに力いっぱいたたかわせていただきたいと決意しています。

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