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2007年6月15日 第166回国会 文教科学委員会
政府案「学校教育法等の一部を改正する法律案」
民主党案「学校教育の環境の整備推進による教育の振興に関する法律案」等

中央公聴会
公述人
 佐々木知子 弁護士・帝京大学法学部教授
 佐竹 勝利 鳴門教育大学学校教育学部教授
 最首 輝夫 前市川市教育委員会教育長・元船橋市立金杉台中学校校長
 藤田 昌士 元立教大学教授
 氏家 和男 日本弁護士連合会副会長

公述人意見聴取

法律改正には賛成、新しい職は教諭の雑務を減らす
予算面、運用面でのきちっとした対処が、教育をよくする

弁護士・帝京大学法学部教授 佐々木 知子 

公述人・佐々木 知子・弁護士・帝京大学法学部教授
 私は、先般行われました教育基本法改正に賛成しており、その改正に基づいてなされました今回の政府提出に係るいわゆる教育3法案に対してもまた賛成の立場に立っておるものでございます。
 私は、15年余にわたりまして検事として勤めた後に、自民党参議院議員を1期務めました。弁護士業は3年前からで、これに加えて2年前から週1日、大学、これはロースクールではございません、大学の学部でございます法学部で1年生から3年生を対象に刑法と刑事訴訟法を教えております。
 教育の重要性につきましてはどの方も認識しておられるところでありまして、私も教育ほど重要なものはないと考えております。人をつくるのは教育であり、社会も国家も人によって成り立っておりますので、すべての根底には教育があると言っても過言ではございません。日本が明治維新を経て瞬く間に近代化をなし得たのは、その以前から全国津々浦々の寺子屋制度によって一般市民にまで読み書きそろばんが教えられ、識字率が当時の水準からして世界一であったと言われることが背景にあり、力の源泉であったとよく言われていることです。バランスの取れた適正な教育が国民すべてに機会均等に与えられることは近代民主国家の基本であると考えておるものです。
 さて、私が教育について特に関心を持つようになりましたのは、参議院議員になり、それまでは知らなかった歴史教科書問題に接したときではあったのですけれども、実を申しますと、その以前から、少し違う形ではありましたが、随分と教育について考えさせられる機会がございました。
 それは、検事という職業柄、非行少年、犯罪少年を通してという形でした。成人の犯罪者でももちろんそうなのですけれども、事、少年犯罪となりますと、年少なだけに教育のゆがみ、ひずみというものが極端な形で現れてまいります。当の少年を取り調べた後に、重大な犯罪であれば検事も当然親を呼び出して事情を聞くわけですけれども、そのたびに何度も、ああこの親にしてこの子ありということを思わされたものでした。親自身が検事の前に出てもあいさつができない、じっと座って話が聞けない、規範意識がない、つまり子どもがやったことの重大さが分かっていない、そういう状況なのです。ああこういう家庭環境に育てば、こういう親の下で育てば誰でも悪くなるだろうと思わざるを得なかったし、また、子どもを教育して戻すといっても、その家庭に戻すわけですから、そこで刑事司法は一体何をできるのかと考えた時に、非常にその限界を感じて寂しい思いをしたことをよく覚えております。
 子どもというのはどの子も例外なく最も身近にある大人のモデル、つまりそのほとんどが親になるわけですが、親の背中を見て育ってまいります。勉強しなさいとかお金をちゃんと使いなさいと言われることを聞いてそのように育つのでは決してなくて、親の生き方、姿勢を見て、観察してそのように育っていきます。あいさつをしろと言われても、親自身があいさつをしなければ子どもはまねようがなく、何も言わなくても親が近所の人たちにあいさつをしていればそれをまねていくものです。
 私は、議員時代に少年法改正に携わりました。それでもなお、いまでも日本の少年法は世界有数に軽いと思っておりますので、少年法の厳罰化そのものに決して否定的ではないのですけれども、その一方で、子どもは勝手に育つわけではない、当然ながら親が大きな責任を負っているということは分かっておりますので、子どもだけを処罰してもなあという気持ちがついて回っているのもまた否定できないことでございます。
 教育はさように家庭に始まり、家庭こそが最重要の教育の場であることは言うまでもないことだと考えております。人にあいさつをする、人の話は静かに聞く、姿勢をきちんと保つ、出されたものは残さず食べる、こうした基本的な生活態度は、当然ですけれども、まずは家庭でしつけられるべきものです。
 ですから、今般の教育基本法改正によって家庭教育が、それまでの社会教育の一つとしての位置づけではなく、その10条に独立して規定されたことは喜ばしいことだと考えております。言わば当たり前のことをわざわざ法律で規定せざるを得なくなったということは、実は悲しむべきことかもしれませんけれども、非行少年、犯罪少年の親の例を典型例として、親にもまた教育が必要であるという家庭が、悲しいかな増えているのも現実なのでありまして、その2項にあるように、国としては家庭教育を支援する施策も講じなければならなくなっております。
 かつて日本に当たり前のようにあった大家族はもはや衰退しており、核家族が中心となりました。かつては親代わりになって子どもをしつけることのできた祖父母、おじ、おばも、存在しなくなっております。そこで、教育の主体として学校や地域社会という存在がより大きな比重を持たざるを得なくなっております。教師の方々は、悪くすると本来は家庭が担うべきであるしつけの役目まで担わされて、本当に大変なことだと思わされております。
 さて、学校教育に関しまして、ぜひ私が申し上げたいことが2点ございます。
 まずは、初等中等教育におきましては、とにかく基礎教育をきちんとやっていただきたいということです。それは、その後の高等教育を実りあるものにするためにも、ぜひやっておかなければならないことです。ベストセラー「国家の品格」の著者、藤原正彦さんが折に触れてよく言われておりますけれども、初等教育は1に国語、2に国語、3、4がなくて5に算数、つまり昔でいう読み書きそろばんをきちんと教える、それに尽きると私も信じているものです。
 私は、職業柄、どうやって法律を学べばいいのですかということをよく聞かれます。そのたびに私が答えておりますことは、法律の基本は国語力なので、まず国語力をつけてくださいねということを申し上げております。法律を勉強するということも大事ですけれども、その以前に本を読み、新聞を読み、自分の頭で考えそれを文章に書いてみること、その基本が必要であるということを教えております。その基礎の力がありさえすれば、法律を勉強しても多分きちんと身につきますし、反対にそれがなければ、その上にどれだけ個々の法律を勉強しても、あるいは試験は通るかもしれませんけれども、本当の意味では会得し得ないものであると考えています。
 これは法律に限らず、文系の学問には言えることですし、あるいは理系であっても、おそらくは基本的に国語力が物を言うはずだと考えています。つまり、国語力というのは人が物を考えるときの基本の力となるからです。それが初等中等教育においてマスターされていなければ、その後の高等教育も実は成り立たないと思っています。
 私は、大学で教えながらそれを日々実感しております。私は、大学の定期試験は論述式、つまり何々について述べよという試験問題にしているのですが、これに対して学生からのクレームは物すごく多いのです。学生が言うには、先生、僕は漢字が書けません、私は文章が書けません、それはやめてマル・ペケにしてください、穴埋めにしてくださいよ、せめてと、こういうことがもう本当にたくさんの学生から言われます。私も、三つの講義のうちの二つが受講生200名を超えるマンモス講義ですから、それを一々論述式で採点するとなるともう本当に地獄の日々を何日か送らないといけないのですけれども、それでも私はこれを死守すると言っています。つまり、なぜかというと、この時だけでもきっちりとした日本語を書いてほしい、その訓練をしてほしい、それが動機づけとなって日々日本語をちゃんと勉強するようにしてほしいと学生に願っているからなのです。
 学生も、一つは必修ですからちゃんと書けなければ単位がもらえません。卒業できないわけですから、これはかなり必死にやっている学生もやはり出てくるわけですね。採点をしてみますと学生の実力が本当によく分かります。へえ、よくできるじゃないってびっくりするほどいい答案があることもあります。でも、大抵はできていないのですね。これは私の問題に対する答えができていないという、その以前の問題で、まずもって文章としてなっていないというレベルが多いわけです。もちろん漢字も書けていません。私の大学のレベルでそうなのかなと思って周りの人たちに聞いてみますと、どこの大学の先生方も、やはり最近の学生は文章が書けないよ、というふうにおっしゃいます。
 私は、やはりそれはそうだろうと思います。例えば、司法試験の合格答案ですらまともな日本語ではない例が実に多いです。これは上からの決まった数で採りますからそういうことになります。私たちのころまではずっと年に500人でしたけど、いまは1500人以上通しておりますし、いずれこれを3000人通すというふうに言っておりますので、ますます全体のレベルはこれ落ちてくるだろうと言われております。最近、合格者数がそのように随分増えておりまして、友だちが何人か司法研修所で教えておりますが、大きな声では言えないけれど、8割方は使い物にならないよというふうにぼやいていました。
 そうなのです。これは全体に国語力が落ちているということなのですね。つまり、それはどういうことかというと、初等中等の教育レベルが落ちているということになります。私も司法修習生や新任検事の指導に当たったことがありますが、主語、述語といったまともな日本語が書けないレベルが、信じられないことでしょうが、結構おります。いまも若い弁護士さんが書いた書面を見ますと、要件事実がきちんと把握されていないという法律以前の問題に、書いた日本語の文章がよく分からないという場合が決して珍しくはありません。
 大事なことは、国語力は物を考える力のみならず、感性、つまり心をもつくるということです。長年日本に住む韓国女性の呉善花さんがその著書「スカートの風」で書いておられますが、日本に住んで5年ほどしてようやく生け花の美が分かるようになった、それは、たおやか、しなやか、すずし、わびし、つましなどといった、大和言葉でなくて表現しようがない美が分かるようになったということです。つまり、国語力は頭と心をつくる、人間の基本をつくるというふうに考えております。
 私は、ゆとり教育という理念自体が誤りであるとは決して思わなく、詰め込み教育にはもちろん反対なのですが、大事な時期の人間のバックボーンをつくる基礎教育もないがしろにして、ただ自由時間を増やせという意味であれば、断じて誤りであると考えております。
 普通の人は教えられ、しつけられて初めて1人前になるのであって、そうした基本が身についてこそ応用があり個性があります。昔から鉄は熱いうちに打てと言いまして、まだ心も頭も柔らかいときに良い型を身につけさせておくということが大事だと思っております。そのために、私は中身の詰まった美しい文章がたくさん載った、そして、できる子どもにはさらに知識欲も駆り立てられるいい教科書を作り、使ってほしいと思っています。
 西尾幹二さんが「歴史を裁く愚かさ」という著書でも触れておられますが、ヨーロッパ先進諸国やアメリカの歴史教科書を調べたところ、どの国の教科書も4、5分冊あると、分量が決定的に違う。固有名詞のただ羅列では終わらずに複雑で深い内容の叙述になるわけですが、それを読むことで子どもたちは自分で考える力がついてきます。
 教科書の採択は今般の地方行政法の改正とは関係はないでしょうし、文部科学省の選定に掛かってくることでしょうが、ぜひ、厚い中身のある教科書が作られ、選定されるように考えていただきたい。
 それからもう一つ、学校教育に関して私がこの場をおかりしてぜひ申し上げたいのは、教育現場の改善についての要望です。
 つまり、意欲ある教師が働きやすい環境にしてほしいということです。家庭の崩壊とともに、いじめや学級崩壊、不登校など様ざまな問題が起こるようになっていて、教育崩壊は日本のバブルがはじけて治安が悪くなったころと多分同時期に始まっていて、社会崩壊の一つの表れであり、ひずみであると考えています。
 教師の仕事は、本来、子どもに教え、子どもに直接向き合うということですが、本来のこと以外の雑務あるいは保護者のクレームなどによって、子どもに向き合う気力も体力もないというような現状は、非常に私は憂えるべきことだと思っています。今回の改正によって、副校長、主幹教諭や指導教諭という職を設けることができるようになりましたので、その的確な運用によって、できるだけそうした雑務は個々の教諭の手を離れたところで扱えるようになればよいと考えております。
 ご存じのように、人に向き合うということは非常なエネルギーが要ることでして、私は週1日の大学の講義、3コマを持っているだけでへとへとになります。人は、自分自身が心身ともに健康であって初めて他人を思いやれますので、ぜひ、教師にはゆとりを持たせていただきたいというふうに思います。
 ただ、どんな会社でも職場でもそうですが、良き人材を登用するためには待遇を良くすることが必須の条件ですのに、これだけ仕事はハードなのに教員には残業手当も支給されないと聞いております。
 今般の3月29日、中教審の答申によって、今後の教員給与のあり方についてという改善策が出ておりますけれども、責任だけやたらに重くて心労はかさみ、その上待遇が悪いと来ては、崇高な使命だけでは人は教員になりそれを続けられるものではありませんので、ぜひ、待遇を良くしていただきたい。国は人づくりに始まる。人をつくる教育に国は最もお金を掛けるべきだし、出し惜しみをするべきでは全くないと思っております。
 以上、はしょりましたけれども、法律の改正には賛成しておりますが、この改正で足りるわけではもちろんなく、予算面、運用面でのきちんとした対処が教育を良くすること、つまり社会効果にすぐつながることだと考えておりますので、その面での配慮をぜひよろしくお願いしたいと思います。


教員免許更新制は、個々の教師の職能成長の観点から判断
客観的にメリット、デメリットを把握し、現場に密着した研修を保障すべき

鳴門教育大学学校教育学部教授 佐竹 勝利 

公述人・佐竹 勝利・鳴門教育大学学校教育学部教授
 私の専門は教職論でございます。そして、大学院で多くの現職教員と接しております。学校教育を中心とする教育の実際をいろいろと見聞きしております。また、お恥ずかしいですけれども、最近はごぶさたしておりますが、小中学校を中心に各地の学校を訪問し、校内研修や校内研究の実態を調査しておりました。
 そのようなことから、現職教員の様子を日常的に見てまいりましたし、様ざまな現実の教育課題を耳にし、目にしております。そのような私自身の体験的教職論ともいうべき視点からも、最近の教育改革について意見を述べさせていただきます。
 十分な用意ができませんでしたので、資料もございません、申し訳ございませんが。そこで、2点だけに絞って述べさせていただきたいと思っております。
 まず一つは、学校の組織のあり方について申し上げたいと思います。もう一つは、免許更新制について申し上げたいと思います。
 学校のあり方につきましては、実は、ただいま佐々木公述人からのお話にまったく同感でございます。ただ、法案に出ておりますその制度につきまして、結論的には意見がございます。
 まず、政府関連法案である学校教育法の一部を改正する法案についてであります。
 それによると、現在の学校は、管理職である校長、教頭と職位に差がない教諭が大多数を占めておりまして、いわゆるなべぶた型組織だ、と言われていますが、学校をめぐる環境の複雑化によって、学校運営に係る各種調整のための業務が増大をしております。そういうことから、管理職を補佐して担当する副校長や主幹教諭あるいは他の教諭の指導を担当する指導教諭の新設がうたわれております。
 私は、なべぶた構造が学校運営上、実際的ではなく、平等ではあるけれども横並びであるとか、あるいは横のつながりが必ずしもないとか、逆に、そういうおそれがあると思っております。さりとて、教職員間の指揮命令関係を明確にして管理上の円滑さをねらうということには反対するものであります。
 私の知る限り、多くの学校の先生方は、まじめに時間を惜しまず学校の一員として相互の連絡や協力をしながら教育実践に励んでおられます。何が言いたいかと言いますと、管理されずとも組織体として動いているということです。うまくいっている場合には、いわゆる協働も成立しているように思われます。もちろん、なべぶた型組織としてではなく、そこには校長、教頭がいて、その下に教務担当や生徒指導担当の各種主任がいて、各学年主任がいて、中学校や高等学校ではさらに進路指導などの主任もおります。それぞれ彼らがミドルリーダーとして分掌校務を進めております。つまり、なべぶた型組織ではないということでございます。
 にもかかわらず、新しい職として設置しようとするのは、主に従来の校長、教頭、各種主任、各教員という組織が機能していない学校があるのではないかと。そういう学校はいわゆるライン組織にしないと教員が動かないからではないかというふうに思われます。それは、それぞれのリーダーの力量のなさを示すものでもあるのではないかと思います。そのような学校では、管理権を持たせた職を設けても十分なリーダーシップのない指揮命令になり、それでは効果がなく、意思決定はできないだろうし、教師のモラールが低下するということも明らかであります。
 そもそも、学校の組織は官僚制組織ではなく専門性組織だというふうに言われます。後者は、なべぶた型組織とイコールではなく、つまり専門性組織ですね。学校も必要に応じて組織的に動くことがあるけれども、そこには専門的な判断や行動が伴っているということであります。先生方をライン組織において管理することは、そうなりますと不適当だと思っております。ライン組織のような組織にすることによって個々の教師の判断や行動を制限しようとするねらいであれば、話は別です。
 学校は一般にそれほど大きい規模ではありませんし、中間管理職が多く必要になるような組織ではないと思います。私は、むしろ現行の校長、教頭が優れた人格を持ち優れたリーダーシップを発揮すれば、学校運営が、ひいては教育実践が効果的に行われると思っております。
 比較的最近、こんな話を現職の教員から聞きました。
 新しい教員評価が導入されておりますが、これについて聞いたところ、この人、つまり管理職ですね、この人からなら評価されてもよいと思うような校長、教頭であれば教員評価の導入には反対しないと、このように言っておりました。そうでない場合は悲惨であるということでした。十分想像できることではないかというふうに思います。
 次は、2点目でございます免許更新制についてであります。
 これについて、教員の質の担保は必要であるし、何らかの制度化はそれを公的に保障するものとして私自身は認められるべきものであるというふうに思っております。
 最近の変化の激しい社会のなかで、子どもや教育をめぐる状況に危機感を持つ人は少なくありません。先ほどの佐々木公述人のお話にも十分そのことが出ておりました。例えば、しつけのなさとか、あるいはいろいろ問題になっております虐待、放任など親子関係のゆがみとか、それから勉強さえしていればよいという家庭の学校化といいましょうか、そういう問題もあります。また、自然や遊びの空間の消失、そういうものがなくなっている。それから、近隣関係の希薄化といった地域の教育力の低下もございます。マスコミや情報産業からの大量の興味本位の情報を消化し切れないという問題も随分あると思います。それら枚挙にいとまがないほどでございます。
 そういうなかで、子どもや保護者の要求はかつてないほど多様化し、また、かつてない豊かさのなかで自己中心的で規範意識の低い子どもが目立つようになっています。これは、実は大人も同様だと思われます。これに対して学校は、そして教師は、これまで以上に絶えず研さんに努め、自らの力量を向上させなければ、また学校組織としての取組ができなければ、起こってくる事態に対応できなくなることは必然であります。
 幸いにも、日本の多くの教師は地道に研さんに努めてきたという長い歴史を持っています。すなわち、いわゆる行政機関による研修もさることながら、教員相互によって教材や指導法を工夫し、子ども理解を深めるなどして力量を高めてきており、海外から注目されるほどの校内研修、研究の伝統を持っております。それは目の前の子どものための授業の改善を目指すものでありまして、極めて具体的な効果のある営みになるものであります。
 もちろん、一部には行政研修を拒否し、校内研修にも消極的な教員がいることも否定はできません。また、自主的な研修も行政機関が期待するものとは必ずしも一致しないということもございます。もちろん、その逆もございます。行政機関の研修が教員のニーズに一致しないということもございます。
 したがって、というよりも、したがってですが、制度としての更新制を導入すべきだということになるわけですが、制度となると、ある一定の基準や枠に従ってある種の強制力を伴って行われるおそれがあり、その効果は疑わしいものとなるのではないでしょうか。
 今回の法案では、10年を期限として一定の講習を受け、認定されなければならないのですが、その講習の内容と方法、講習担当者の問題、指導力不足教員排除の問題、大量の対象者への、つまり更新対象者への対応、既存の研修との関係等々多くの問題が指摘されております。
 総じて、教員免許更新制については個々の教師の職能成長という観点から判断すべきではないかというふうに思っております。もう少し客観的にメリット、デメリットを把握したうえで実施すべきではないでしょうか。また、前述の校内研修などのより現場に密着した研修こそ更新制として保障すべきだとする考え方もできるのではないでしょうか。
 細かいことで言いますと、講習時間が政府案では30時間以上とあります。それは大学の授業で言えば15回に当たるものだと思うんですが、たったそれだけで高い効果を期待するには無理がありますし、新規採用教員はスタート時点ではあまり差がないと思われるのに対して、10年も経過した教員には質的にもかなりの相違があるというふうに思われます。つまり、個別の研修内容を用意しなければならないと思われますし、相当の工夫を凝らした実践や理論でなければならないと思われます。
 しかも、更新講習の認定のための判定にはかなり高度の評価力が求められ、短期間に機械的に行うことはできないだろうと思われます。それよりは、いっそのこと、各学校で管理職と各種主任が指導者となり、校内研修を通して行うのはいかがだろうかというふうに思います。もちろん、校外の指導助言者を求めるということもございます。
 また、手前みそで恐縮ですが、10年経験程度の教員を大学へ派遣して2年間、それまでの実践をじっくり見直し、新しい知識や方法を学び、自分の課題を探求するのはどうだろうかと思います。
 これまでの私自身の経験から、教育大学で研さんを積んだ多くの教師が生き生きとしており、例えば、当初は少し元気がないような方がいろいろ同僚、同僚というか同級生ですが、各地方から集まった同級生と生活しているうちにだんだんと生き生きとしてくるというのをよく見ております。やがて、自らの新しい課題を見いだし、気持ちを新たにして現場復帰をしております。その後も、研さんや同級生との交流を続けております。
 最後に、教育再生会議第1次報告において、頑張っている教員を徹底的に支援し、頑張る教員をすべての子どもの前にと述べられております。そして、児童生徒と向き合うことに専念できる時間を確保するため、教員の事務的負担を削減することを提言しておられます。まさに、このような支援が求められると思います。最近の矢継ぎ早の教育改革は教職員を忙しくしていることは明らかです。教職員がじっくりと教育実践に取り組める改革が望まれます。
 また、同報告は社会総掛かりで子どもの教育に当たることを提言しています。これにも大賛成です。子どもとその保護者を家庭に帰すべきです。それを可能にするのは、国や地方公共団体の支援はもちろん、各種の企業の協力が欠かせません。子どもが物の豊かさに翻弄されないようにすべきであるし、保護者が子どもと過ごせる時間を十分取れるように勤務条件を整備すべきです。地域社会でも教育的に良い環境を用意すべきです。
 大人の規範意識を高め、子どもに恥ずかしくない大人にならなければなりません。実は、子どもは学校で規範意識を育てられているのです。私はそう思います。しかし、ひどいことに、家庭へ帰れば、あるいは地域社会でそれは否定されるような、そういうような大人の行為や出来事が多々あるのです。学校や教師だけに責任を押しつけないでいただきたいと思います。われわれみんなで子どもを育てる環境が必要だと思います。もちろん、学校、家庭、地域社会あるいは社会全体がそれぞれの特徴や専門性を生かした教育ということが期待されると思っております。
 十分意を尽くせませんけれども、以上でございます。ご清聴ありがとうございました。


国は、教育予算の増額、理念、ビジョンなどの標準大綱を作成、
権限をもつ現場が子どもを支援するのが、世界に誇れる日本の教育の道

前市川市教育委員会教育長・元船橋市立金杉台中学校校長 最首 輝夫 

公述人・最首 輝夫・前市川市教育委員会教育長・元船橋市立金杉台中学校校長
 教育現場からの視点からの教育改革について少しばかり考えを述べさせていただきたいと思います。
 毎年ですが、新しく校長になった、あるいは教頭になった、あるいは教育委員会から戻ってきた、また校長になったとかという人たちから連絡といいますか情報が入るんですが、今年目立っていたものが保護者対策で大変だという言葉がかなりありました。本来、学校というのは子どもの教育を担うところであり、そのために校長は、教職員と力を合わせて保護者や地域の人たちと協力を得て子どもたちの成長、発達を支えていくためにその持つ教育力を結集していくというのが正しい学校のあり方だろうと思うんですが、おかしいなというふうに自問してしまうことが多くありました。学校は、子ども以外の問題を抱えていては本来の子どもに対する教育というのが非常に薄くなるんではないかなということをおそれております。
 では、その学校を支える教育委員会はどう対処しているのかといいますと、教育委員会というのは、私もおりましたが、一般的に役所化しておりますので、法律にのっとり指示、助言あるいは指導というのは行いますが、それを受けて実際に子どもの指導に当たるのはやっぱり学校、教員ですよね。ですから、その教員がどう努力をするか、どう楽しいといいますか、元気で学校で過ごせるか、子どもに直接触れ合うかということが一番重要なことではないかと思うんです。
 同じことは、都道府県教育委員会とか文科省についても同じです。都道府県教育委員会というのは、市町村から報告は求めますが、その解決については該当教育委員会でやってくださいよというお返事がいつも返ってきます。ただ、いま問題になりました隠ぺい体質というのは、私は具体的には申しませんが、都道府県教育委員会にあったことは認めております。
 もう一つ、首長または首長部局と教育委員会、学校の関係なんですが、首長の考え方にもよりますけれども、教育委員会を信頼して一切を教育委員会にゆだねて、それを行うため、施策を行うために予算あるいは支援を積極的にする首長がおります。一方で、自らの選挙公約とか自分の考えに、あるいは政策にこだわるという傾向があって、それ以外のものについてはあまり協力をしないと、また、そういうものを実現しないと教育委員会に非常に不快な思いを伝えてくるという極端な首長もいることは事実でございます。この差が、実は地方分権になったときに大きな課題になるのではないかなというふうに私は現職のころ思っておりました。
 では、こういう実態、いま申し上げました学校、教育委員会あるいは首長部局、役所、そういうものがどうしてこういう実態が起きてきているのか、その背景について私は次のように考えております。
 皆さんもお気づきと思いますが、教育の中央集権化というのが戦後進んでまいりました。学校はその末端機関と位置づけられて管理されることで、教職員というのは上からの指示、命令、そういうものの言いなりにならざるを得ない。そういう形で、学校あるいは教職員というのはこれまで長い年月を過ごしてきています。したがって、教育委員会も学校も、問題の起こることをおそれるあまり、国の方針、指示に従うという指示待ち機関というふうに特別な言葉があるんですけれども、指示待ち人間、指示待ち何とかってありますが、教育委員会もそういうふうになってしまったということを言われておりました。教育委員会が思考停止になったということを言っている人がおりましたけれども、こうした国支配の状態が長く続いた結果でありまして、教育委員会の体質になっていることは事実でございます。
 自由で、独自の発想や創造的な施策や、そういう教育ができない、あるいはしない方が得策だと、こういう思いを持つ、そんな雰囲気が、私が教育委員会に入ったときにございました。校長は教育委員会を気にしますし、教育委員会は都道府県教育委員会や文科省を気にする、こういう空気が支配しておりまして、上を常に意識するという雰囲気がありました。
 管理社会というのは、ご存じのように多忙化します。ホウレンソウなどと言って、一つひとつのことについていろいろ上司に相談をしなければいけないと、あるいは文書処理なども大変多くなります。そういう管理社会のなかに組み込まれた学校も、教員は多忙で、子どもに接する時間が極度に少なくなってきています。私が教員になった1950年代は、子どもも教員もゆったりしていました。時間や事務仕事に追われることはほとんどなく、常に子どもとともにいました。
 教育の最前線、子どもに1番近い学校現場が管理される末端機関とされたことで、本来の教育現場とはほど遠く息苦しいところになっていることも事実でございます。これで良い教育ができるとは言いかねる状況があります。
 また、最近とみに教育関係者の責任が問われます。自由と責任、権利と義務と言われますように、自由には責任が伴い、権利には義務が伴うものですが、自由が保障されないのに責任だけが問われるとか権利が与えられていないのに義務を果たしてないと追及される、そういう理不尽がまかり通っていることも現実でございます。これは何も教育界だけではないのですが、学校も教員にも自由は与えられていませんが、責任だけは問われています。このようななかで教員は萎縮し、自信をなくしています。いま、学校現場では責任と競争に押しつぶされようとしているという状況がございます。
 日本の社会で教育環境として辛うじて崩壊を免れているのは、唯一学校だけだと私は思っています。子どもの視点に立った教育、学校現場の視点に立った教育システムづくりを急がないと、唯一崩壊していない学校も崩壊してしまうのが目に見えています。
 次に、今後の改革のあり方についてですが、二つの観点から考えてみたいと思います。一つは分権型社会を目指すという観点からで、もう一つは教育の本質という観点から考えてみたいと思っています。
 いま審議中の地教行法を始めとした教育関連法案は、いずれも集権時代に作られた法律です。本当に日本の教育を再生したいと願うならば、これらの法律を抜本的に作り直すことが必要と私は考えます。手直し程度では法の精神は変わらないわけですから、教育が変わるはずはないと思います。いずれにしても、これからは本来の教育に即した教育を実現するために国も地方も一つにまとまっていただきたいというのが私の現場からの願いです。
 私の個人的意見としては、すでに限界に来ている行政主導体制から脱却して、地方教育委員会と学校に権限のほとんどを移譲し、自由と権限を持たせることによってそれに伴う責任と義務というものが発生してきます。それが一番だと思っています。そういう場合は、責任、義務というのは現場が負うことになります。事実、日本でも地域の子どもは地域が責任を持って教育するんだという気概に燃えている地域があると聞いています。そういう地域は、教育だけではなく住民や産業など、すべてが生き生きしているとも聞いています。
 また、競争主義を持ち込めば教育が変わるか、私はそうは思っていません。イギリスの教育は競争による弊害が出てきているようです。日本でも、学力テストの成績を上げるために学校を競争させ、それによって学校予算を増減するといったようなとんでもないことが起こっています。一体、競争というのは誰のためにするのでしょうか。予算は誰のために使うのでしょうか。考えさせられてしまっています。
 管理は教育の自殺行為であるという有名な言葉があります。管理教育は、実は生徒にとっても教師にとっても最も甘い教育なのだというふうに考えます。それはどういう意味かといいますと、上から与えられた枠組みに無批判に従う主体性のない人間をつくるにすぎないからだといいます。これは到底教育の名に値しない。
 管理によって、まず何よりも創造性と活力を奪われます。さらに、管理は主体性を奪い、自分で考え、自分で判断する力と自信を根こそぎにします。管理の下では自分の思考や自分の判断は無用だからです。邪魔になるのです。自己主張は管理への反逆とみなされるから、管理の命ずるままに従うことが一番だと考えます。そのことによって、自分に自信をなくしていく。常に周囲に気を配り、周りと同質となることで安心しようとする。結果、自分で生きるのではなく他力に従って、危険なく、損なく、そつなく、何事もすり抜けて生きていこうとする安易な生き方に堕するのです。管理教育はこんな人間を育てているのです。
 これは教育の名言を集めた本のなかから紹介したものですが、この考え方というのは、子どもたちではなく、教員や教育委員会職員にも当てはまる言葉だと私は考えています。自由を与え、責任を持たせ、主体性や創造性を養うことが教育では何よりも必要だと私は考えています。
 去年来日した「第三の波」などの著者、アルビン・トフラー氏は、日本のあらゆる制度改革、その最大の障壁となっているのが官僚制度だと言っています。さらに、もうそういう時代ではないとも。1900年代半ばから始まった知識革命の第三の波では、教育の画一性は個性や創造性に取って代わったと言っています。新しい人間に育てるには、新しい、しかも革命的な教育制度が必要だが、日本はそれにはほど遠いものがあると言うのです。こういう言葉に謙虚に耳を傾け、日本の教育の遅れを取り戻したいものです。
 公述を終わるに当たり、教育の現場を預かった者の一人としてぜひ申し上げておきたいことは、現場、特に学校や教職員は、日本の集権管理の教育システムの下に、自由も裁量権もないなかで、国で定められた指導要領の内容を、与えられた教科書と一律に編成される教育課程を基に言われるままに、しかも必死に努力をしているということを忘れないでいただきたいのです。一部に、問題を起こしたり、不適格な者もいることは事実です。それをもって学校はあるいは教員は駄目だという評価や世論喚起をすることは、ますます学校や教員に対する不信感を募らせることになり、優れた人材流出を加速し、教育に情熱を持ち、これから教員を目指そうとする若者たちに冷水を浴びせることにはなりはしないかと危惧しています。
 教育の基本となるものは信頼です。信頼なくして教育は成り立ちません。私は、この信頼という言葉を常に使ってまいりました。いま、その信頼が現場にはない、これが現実です。資料にあるローレンツの言葉がそれを示しています。人間は、好きで尊敬する人からのみ伝統を受け継ぐことができる。これは、繰り返し私は教育長時代に申し上げました。これを大事にして教育に当たる教員もかなり出てきました。子どもたちに信頼されるということ、これがやっぱり教育にとって一番の基本だということを表していると思います。
 国は、教育予算の増額あるいは理念、ビジョンなど標準大綱を作り、後はほとんどの権限を現場に移譲する。そして、現場が子どものために知恵を出し合い、責任を持って子どもの人間形成を支援する。行政は教育環境の整備に徹し、それを支える。これが世界に誇れる日本教育への唯一の道ではないかと思っています。教育は学校だけでできるものではありません。国民の総合力です。それは、できるだけ多くの人たちの共感と理解が必要です。そのためにも、現場の人たちを交えた国民的な議論と情報の公開が必要と考えています。押しつけの改革では反発を招くだけで効果を上げることはできないと思います。現場に視点を置いた教育改革でなければ教育再生というのは難しいと私は思います。


職階制導入という教員の管理強化は、
教育という学問実践、創造的な実践の世界になじまない

元立教大学教授 藤田 昌士 

公述人・藤田 昌士・元立教大学教授
 私は、道徳教育をテーマとする研究者の一人として、特に政府提出の学校教育法改正案を中心に意見を述べることをお許しいただきたいと思います。
 お手元に資料をお配りしておりますが、主として公述の要旨に基づきましてお話を進めまして、私の書きました雑誌論文を2点ほどお配りしておりますが、それはまた後ほどごらんいただければ幸いでございます。
 さて、私はいま、最首先生のお話、多分に共感を抱きながらお聞きしておりましたけれど、私は、まず学校教育法改正案第21条に注意を向けたいと思うわけですが、これが教育基本法第2条を受けまして道徳教育に関する目標を著しく強調しているということは、もう申すまでもないと思います。10項目のうち、少なくとも3項目は道徳教育の目標と見るべきものであります。ある論者の言葉をかりますならば、現行の学校教育法に比べて学校教育目標が道徳基準化した、あるいは徳目基準化したと言われるゆえんであります。
 以下、特に目標の第1号から3号までに注意を払いながら述べてまいりますけれど、それらの目標は単に同じ平面上に並べられているものでありましょうか。私は、そうではなくて、そのかなめを成すものはわが国を愛する態度、そこにかなめがあるということは、教育基本法の改正に至る過程、あるいは昨年の国会における審議の過程に即しても明らかだと思います。
 戦前、戦時の教育に君臨したあの教育勅語が、その徳目が、単に並列されてあるのではなくて、皇運扶翼を頂点とする価値体系、ヒエラルヒーを成していたのと同じように、かなめを成すわが国を愛する態度、いま様ざまな徳目はそれに方向づけられたものとして組織立てられようとしているのではないか、私は、今後の動きを含めてそういうふうに考えるわけです。
 さて、その愛国心と言われるものでございますけれど、1950年代以降の政府の道徳教育政策を振り返ってみますと、一体何を愛国心と言ったのでありましょうか。
 そこに書きましたように、第1には、自衛のための自発的精神。1953年の池田・ロバートソン会談で申し合わされました、日本政府は教育及び広報を通じて愛国心と自衛のための自発的精神、そこに一つの特徴がある。現在の防衛白書で言うならば、国を守る気概としての愛国心であります。2番目には、期待される人間像を1例として天皇への敬愛の念と不可分なものとしての愛国心。そして3番目には、特に1980年代の臨時教育審議会答申以降強調されております日本の伝統、文化の理解と尊重、それに基づく日本人としての自覚としての愛国心。この三つの言わば相貌が、顔が、50年代以降の道徳教育政策に即しては指摘されるのではないでしょうか。
 ちなみに、そこに書きましたように、日本教育会研修事業委員会編著、日本教育会というのは校長先生や教頭先生を中心、有志を中心とした職能団体でございますけれど、その書物によれば、天皇制こそがわがが国の伝統の中心であるとも言われているわけです。
 このような三つの流れを含んだ愛国心、そういうものとして教育基本法第2条あるいは学校教育法改正案第21条で言われるわが国を愛する態度があると。それらを受けたものとしてあると考えるのがむしろ自然ではないでしょうか、当然ではないでしょうか。
 ところで、清水幾太郎氏がかつて岩波新書「愛国心」のなかで18世紀イギリスの政治家ボリングブルックの言葉を紹介された。そのボリングブルック、トーリー党内閣の陸相、国務相を務めた政治家でありますけれど、トーリー党は現存制度を擁護することによって愛国的義務を果たし、ホイッグ党は現存制度に攻撃を加えることによって同じく愛国的義務を果たすことができる。ここでいみじくも言われておりますように、一口に愛国心と言っても、トーリー党の愛国心とホイッグ党の愛国心があるのであって、民主主義はその一方を排除することを許さないと思います。
 にもかかわらず、教育基本法第2条さらには学校教育法改正案第21条でわが国を愛する態度が法定されることによって、1950年代以降の経過を受けた特定の意味での愛国心が子ども、国民に強制される危険が一層増大したと私は言わざるを得ないのであります。日本国憲法第19条あるいは児童の権利に関する条約第14条、思想、良心の自由あるいは思想、良心、宗教の自由を侵害するという危険がそこにはあるのではないでしょうか。また、児童の権利条約第29条は、締約国日本の政府に課する教育の目的、そのなかで、人権及び基本的自由の尊重を育成すると、そういう目的を挙げていることにご注意いただきたいと思います。
 いま求められようとしている愛国心は、人権及び基本的自由の尊重という、その教育目的との整合性はどうなるのでありましょうか。
 さて、学校教育法改正案第21条、その背後にある教育基本法第2条は、地方教育行政の組織及び運営に関する法律改正案の第49条に言う児童、生徒等の教育を受ける権利の侵害、あるいは教育公務員特例法改正案にいう指導が不適切な教員の認定等においても、その判断基準として機能する可能性があるのではないか。その意味では、この学校教育法改正案第21条は政府の教育3法案の根幹とも言うべきものでありまして、そこに掲げられた精神、規範意識、態度等々の諸徳目の意味するところや、このように細目にわたって道徳教育目標を法定することから起こり得る危険についての厳格な検討が求められると思います。
 学校における道徳教育が学校の教育活動全体を通じて行われることは、一面では道徳教育にとって本来的なことでありますが、学校教育法改正案第21条は、国語科を始めとする各教科、領域の教育活動を不当に拘束することによって学校の教育活動の「道徳教育」化を促進するおそれがあると私は憂慮しております。その「道徳教育」化の見逃すことのできない一面は、認識の忌避と歪曲ということであります。最近の高校教科書検定における沖縄住民の集団自決に対する日本軍の関与、強制に関する記述の削除、修正はその一つの表れではないでしょうか。
 過去の修身教育が、神代の昔に始まる国史教育によって支えられたという事実を国民学校児童である私は忘れることができません。ちなみに、第21条第3号には、わが国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き云々とありますが、何を正しい理解というのか、現実に照らして批判的な検討が必要であると思います。
 次の問題に移ります。
 政府提出の教育3法案、とりわけ学校教育法等改正案と教育職員免許法等の改正案とにおいて感じられますことは、上述のような道徳教育目標の下での学校教育の内容、方法、そこに高校における奉仕活動の必修化と書きましたのは法案ではなくて教育再生会議の第2次報告でございますけれど、学校教育の内容、方法の統制、第2条、第21条の下での、他方では教員に対する管理統制、そのセットとも言うべき政策の構造を持っているのではないか。教員に対する管理統制の強化は、学校教育法改正案においては第37条等に見るような校長、副校長等々、そういういわゆる職階制の導入に表われていると思います。教育という学問的な実践、さらには芸術にもなぞらえられるような創造的な実践の世界にはなじまぬことではないかと私は考えます。
 ぜひ、皆さま方に、日本政府も代表して決定されました、ILO(国際労働機関)、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)、教員の地位に関する勧告、あのなかで、ティーチング・プロフェッション・シュッド・エンジョイ・アカデミック・フリーダム、教職者は学問上自由を享受するものとするというあの条文をぜひ想起していただきたい。それにふさわしい教師のあり方というものをお考えいただきたい。
 時間の関係もございますので、徳育の教科化については、この法案と申しますよりも第2次報告で提言されたことでありますので、のちほどご質問でもありましたらお答えいたしますけれど、飛ばそうかと思います。ごらんいただければ有り難いと思います。
 ただ、ここに並べましたのは、先ほど申しました教育基本法第2条、学校教育法第21条、その下での学校教育内容、方法の統制、片や教員の管理統制、そのセットともいうべき構造が実はこの徳育の教科化の論理のなかにもあるのではないかということで、私はあえて言及したいと思ったわけであります。
 さて、そこに学校評価と情報提供ということを書きました。学校教育法改正案第42条、第43条にいう学校の評価と情報提供についても注意を要すると思います。「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2005」、2005年6月に閣議決定されたものでございますけれど、そこで今後の教育改革の方向として競争と選択という言葉をうたわれていることはご承知のとおりであります。言うなれば、いまの教育改革のキーワードは競争と選択にあるのではないか。私は、一面ではこの学校評価、住民に対する情報提供を大事だと考えますけれども、もしこの評価と情報提供がこういう競争の論理のなかに位置づけられた場合には一体どうなるのでありましょうか。そういう点についての慎重な検討も必要であると考えます。
 そこに参考までに、規制改革・民間開放推進会議、規制改革・民間開放の推進に関する第3次答申、2006年12月に策定されたものでございますけれど、そこに次のようにあることにもご注意いただきたいと思います。
 学力調査結果はあくまでも個別の学校に関する情報公開の一環として学校選択のための基本情報となるものであり、情報サービスを受ける学習者及び納税者に対する説明責任の観点からも学校ごとの結果を公表すべきと考える云々。こういうふうに、現在文科省は学校ごとの公表は行っておりませんけれど、現にこういう答申もあるわけで、この評価と情報提供ということが競争と選択という文脈に置かれた場合に一体どう機能するのかということについても、ぜひ慎重にご検討いただきたいと思います。
 私は、終わりに何を書こうかさんざんに迷って、白紙でこれ用意いたしました。さっき申しましたように、私は国民学校児童、1945年、6年生のときに敗戦、終戦を迎えた世代でございます。それだけに、戦争を体験した一人として、日本の教師たちが1951年、教え子を再び戦場に送るなと言ったその熱い思いを忘れることができない。あるいは1952年、高知の教師竹本源治さんが、「逝いて還らぬ教え児よ 私の手は血まみれだ」とうたったその悲痛な思いを忘れることができない。
 どうか皆さま、私は国民学校児童の1人として、子どもたちの平和で豊かな未来のために、国家は道徳の教師ではあり得ないという近代の民主主義の原則にも思いを致されて法案を十二分に慎重にご審議いただきたい。そのことを切にお願い申し上げて、私の公述といたす次第でございます。


親が学校に、教師に期待しているのは、今回の改正ではなく
一人ひとりの子どもが、それぞれの能力に応じて成長、発達できること

日本弁護士連合会副会長 氏家 和男 

公述人・氏家 和男・日本弁護士連合会副会長
 日弁連は、ご承知のとおり、全国52の単位会と、それから約2万3000の会員から成る団体でございます。日弁連の意思決定機関である理事会において、日弁連の意見書が理事の全員一致という形で採択をされておりますので、その意見書に基づいて、日本弁護士連合会としての意見を申し上げさせていただきたいと思います。
 法律家からの目から見た法案の問題点というものを大きく三つに分けて申し上げたいと思います。
 まず第1点は、国家による教育内容統制をもたらすという問題でございます。
 学校教育法改正法案21条には、改正教育基本法2条及び5条2項の規定を受けて義務教育目標規定が設けられ、義務教育として行われる普通教育は、ここに掲げる目標を達成するように行われるものとするとされております。この義務教育目標規定には、伝統と文化を尊重し、それをはぐくんできたわが国と郷土を愛する態度を養うことなどが掲げられております。しかし、義務教育目標規定に掲げられた具体的な事項は、とりわけわが国と郷土を愛する態度がそうであるように、その内容が多義的であり、国や地方公共団体が、その内容を、権力をもって一義的に決定することのできないものが含まれております。
 ご承知のとおりに、旭川学力テスト事件の最高裁大法廷判決は、教育は、本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして、党派的な政治的観念や利害によって支配されるべきではないこと、教育内容に対する国家的介入についてはできるだけ抑制的であるべきこと、個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的な介入、例えば誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるかのような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法26条、13条の規定上からも許されないとの基準を明らかにするとともに、これらが教育に関する憲法上の要請であることを明らかにしております。
 この最高裁大法廷判決の基準に照らしてかんがみるとき、学校教育法改正法案の義務教育目標規定は、教育現場において、国や地方公共団体が、本来多義的な概念を、権力をもって一義的に決することになりかねず、教育の政治的中立性、不偏不党性、自主性、自律性、公正、適正を害するばかりでなく、子どもや保護者の思想、信条の自由を侵害することが危惧されるものであります。
 とりわけ、この法案には、これらの義務教育規定を達成するように行われるものとすると、その教育課程に法的拘束力を与えるものとして規定されております。これは法案33条などにおいて、現行法には教科に関する事項とあるのを教育課程に関する事項と変更することにより、文部科学大臣が教育課程の内容を具体的に定める権限を明確に付与されることとも相まって、多義的な義務教育目標の内容を、国が権力をもって一義的に決していくことにより国家の教育内容統制を制度的に可能とするものとなっております。そのため、当連合会が、学習指導要領の日の丸・君が代条項に関して、一方的な一定の観念を生徒に教え込むことを教職員に対し不利益処分を科して強制させるものになれば、最高裁判決が述べる大綱的基準を逸脱し、教育に対する不当な支配となり、思想、信条の自由の侵害をもたらすことになると警告したところが、この制度により現実的な危険を帯びるものとなっていることを申し上げざるを得ません。
 また他方で、学校教育法42条に、文部科学大臣の定めるところにより、学校の教育活動その他の学校運営の状況について自己評価を行い、その結果に基づき学校運営の改善を図るため必要な措置を講ずることにより、その教育水準の向上を努めるとされ、学校に、自己評価、改善措置、教育水準向上義務が課せられております。加えて、法案43条で、そのような学校の教育活動その他の学校運営の状況に関する情報を保護者、地域住民その他の関係者に対し積極的に提供するものとして、学校に情報提供義務が規定されております。
 しかし、教育水準の向上といっても、地域や学校の実情に応じてその目標とすべき基準は異なり得るものであります。それを法案では、文部科学大臣が定める基準で一律に各学校が自己評価、自己点検・改善を行って教育水準を向上させることを求めることとなり、国の教育内容統制を制度的に可能にする制度となっております。こうした問題は、地域や学校の実情に応じた対応が肝要であって、文部科学大臣が一律に定めるべき問題ではないものと思います。
 第2点として、国、都道府県教育委員会による市区町村教育委員会と私立学校への監督・統制強化の問題を申し上げたいと思います。
 地方教育行政組織法の改正案では、国、都道府県教育委員会による市区町村の教育委員会委員に対する研修などに関する指導・助言制度が設けられ、また法令違反、懈怠(かいたい)による生徒の教育を受ける権利侵害の場合の措置内容を示した是正要求と、緊急に生徒の生命、身体を保護する必要の場合に従う義務を伴う指示の制度が、文部科学大臣の権限として新たに設けられております。
 しかし、これらは実質的に国の地方教育行政への影響を強化するものであり、教育の地方自治原則に照らし不適切であり、また教育の地方分権化の流れに逆行するものと言わざるを得ません。
 これらの改正については、昨年の教育基本法改正の審議中に問題となった必修単位の未履修問題が是正要求の制度との関係で、いじめ自殺の問題が指示制度との関係で、それぞれ契機になっているものと考えられます。しかし、未履修問題に関しては、従前から文部科学省も把握していた問題でありながら適切な問題の指摘を行ってこなかったことによるものであります。いじめ自殺の問題は、当連合会が2006年12月8日に表明したように、子どもの個性や発達に応じたきめ細かな教育を困難にしている教員の多忙さや、国連子どもの権利委員会から再三指摘されている学校における過度の競争的な教育によるストレスの問題などが原因の一つとなっているものであって、政府から独立した子どもの人権保障を確保する機関の設置などが早急に求められているのであって、国の地方教育行政への介入強化によって解決される問題ではないものと考えます。
 また、地方教育行政組織法の改正案では、都道府県知事が私立学校に関する事務を執行するに当たり、都道府県教育委員会に助言、援助を求めることができる制度が新設されております。文部科学大臣の指導、助言、援助下にある都道府県知事が、私立学校の学校教育に関する専門的事項について、都道府県教育委員会の助言、援助を得ながら実質的な介入をなし得る権限を付与するものであり、私立学校の独自性、自主性、自律性を制約することになる懸念があります。
 第3点として、免許更新制による統制強化により教員の自主性、自律性に萎縮効果をもたらす問題を指摘させていただきたいと思います。
 教育職員免許改正案では、教員免許状の有効期間を10年とし、有効期間満了前に文部科学大臣の適合認定を受けた30時間の免許状更新講習を修了した者について免許管理者が免許状の更新を行うとし、更新制を採用するとともに、免許管理者が免許状更新講習受講の必要性の有無を認定する制度もあわせて採用しております。また、教員免許状の失効規定に分限免職の処分を受けたときを加え、教育公務員特例法に、任命権者が児童生徒、幼児に対する指導が不適切であると認定した教員に対し、新たに指導改善研修を設け、指導改善研修中の者は免許状更新研修を受講できないものとしております。そして、これらの改正の理由について、教員の資質の保持と向上を図るためとしております。
 教育職員免許状の更新制度に関して、2002年2月21日、中教審答申は、教員にのみ更新制を導入することに慎重な姿勢を示しておりました。2006年7月11日の中教審答申は、一転、免許状更新制度の導入を推進するとしましたが、更新制度は不適格教員の排除を直接の目的とするものではなく、教員としての日常の職務をこなし自己研さんを努めている者であれば、通常は更新されるものとしておりました。
 これに対し、今回の改正法案による教育職員免許更新制度は、先ほど申し上げましたとおり、更新制と指導不適切教員の指導改善研修や分限制度が連動するものとされております。しかし、2002年、2006年の中教審答申をいずれも変更し、このような免許更新制度を設ける必要性、その立法事実がどこに存するかは全く明らかにされておりません。教員の資質の保持と向上は、教員に自己研さんのゆとりを保障し、自主性、自律性を尊重した下での研修や教員相互間での協力などによって実現されるものであるものと考えます。改正法案のような制度は、教育の本質的要請を破壊しかねない弊害を伴うものであります。
 旭川学力テスト事件の最高裁大法廷判決は、知識の伝達と能力の開発を主とする普通教育の場においても、例えば教師が公権力によって特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につき、ある程度自由な裁量が認められなければならないという意味において、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきと判示しております。すなわち、教員が自主的、自律的に子どもとの直接的な人格的接触を通じて、その専門性を発揮できる教育の条件が保障されることが、教育の本質的な要請に照らして肝要なことであるということを最高裁判決も当然の前提としておるのであります。
 しかるに、任命権者による教育改善研修認定、免許管理者による免許講習免除認定などが実施されれば、10年の任期制に等しい免許の更新のために、教員は子どもとの直接の人格的な接触のなかでの自己研さんに励み、教育の本質的要請にこたえることをおろそかにし、免許更新に備えての準備に腐心し、任命権者や免許管理者の意向をそんたくして自己保身を図ることになりかねません。教育免許更新制度が教員に与える萎縮効果は、教育の本質的な要請を破綻しかねず、その弊害は計り知れないものであると考えます。
 また、旭川学力テスト事件の最高裁大法廷判決は、憲法26条の趣旨について、自ら学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存し、子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習する権利に対応し、その充足を図り得る立場にある者の責務に属するとしております。
 しかし、先ほど述べましたように、教員への萎縮効果や身分安定志向の助長を招くことが容易に予想されるところでは、教員が教育現場で子どもと直接向き合い、直接の人格的接触を通じてその子どもの学習要求にふさわしい教育を実施するというよりも、免許管理者や国が一義的に定めた教育課程を実施することが教員の最優先課題となってしまい、子どもの学習権充足に資することとはほど遠い教育現場となることが危惧されます。
 いま、教育現場に様ざま問題があることは誰しも承知していることです。しかし、そこで起きている問題は、国の教育に関する統制権限を強め、上意下達、指示、是正等をなし、教員の免許を10年の更新制にすることで解決できることでしょうか。
 学校現場の主役は子どもたちであります。教育は、教師の一人ひとりの子どもたちとの直接の人間的接触を通し、それぞれの個性に応じて行われるべきものです。一部の子どもだけ伸びればよいというものではありません。一人ひとりの子どもが、それぞれの能力に応じて成長、発達できるようにしなくてはなりません。親が、学校にそして教師に期待しているのも、まさにこのことではないでしょうか。
 今回の法律改正がなされると、子どもと真剣に向き合い、情熱を傾けて子どもの能力を引き出そうとする教師がいなくなってしまうのではないか。そして、子どもと向き合わず、免許管理者や国の意向ばかり気にする、それこそ子どもにとって指導不適切な教員が増えていくことになるのではないかと危惧されます。法という形ばかり急ぐあまり、実りある成果のないどころか、混乱だけをもたらすことになりかねないと思います。
 教育関連3法につきましては、法案の審議が進むにつれ、国民各層から問題が指摘されております。いま、まさに国民的な議論がなされようとしているのではないかと。これはもう本当に正常な動きになろうとしているのだと思います。政府は、この流れを真剣に受け止め、子どもたちが何でもがき、父母たちが何でもがき、教師たちが何で苦しんでいるのか、本改正法案が本当にこれらの問題の解決に役立つのかどうか、十分な議論が深められる必要があります。
 この問題の解明がないなかで、法という形だけで問題解決ができるかのように表面だけを取り繕うことは極めて危険であります。せいては百年の大計を誤ることになりかねません。その影響の大きさを考えるとき、教育こそ最も拙速を避けなければならない分野であります。
 いま、通常国会がまさに終盤に差し掛かっておりますが、ぜひ、慎重なご審議をお願いいただきたいということを申し上げまして、意見陳述の結びとさせていただきます。


公述人質疑

水岡 俊一・参議院議員
 まず、佐々木公述人にお伺いをしたいんでありますが、佐々木さんは、学校教育法改正案のなかの副校長、主幹教諭それから指導教諭、いわゆる新しい職の設置については一定のご理解をされて賛成だというお話を先ほどもされました。これについては、私は定数配置がある場合、つまり教頭さんに加えて副校長を新しく加える、あるいは教員の定数に加えて主幹教諭の定数を設置するということがあれば意味があるというふうに思っておりますが、佐々木さんとしてはいかがでしょうか。

公述人・佐々木 知子・弁護士・帝京大学法学部教授
 これは、ごめんなさい、定数が変わらないということの前提でおっしゃっておられるのですか。

水岡 俊一・議員
 そうですね。いや、文科省の答弁によればそういう答弁なのです。

公述人・佐々木・弁護士・帝京大学法学部教授
 そうなのですか。ちょっとそこのところはあれで、すみません。
 申し訳ございません、政府のその件に関する答弁については把握しておりませんで。
 私は、教頭とかに加えて、いま副校長とか主幹教諭、指導教諭という役職を設けることによって、教員にできるだけ子どもに直接向き合わす時間を持たせたい。ゆとりがあればその方が教員にとってもいいし、それはもうひいても子どもにとっていいことですので、そのように運用ができればというふうに考えておるものです。

水岡 俊一・議員
 分かりました。
 細かいことをお伺いしてすみません。ただ、かなり重要な問題だと思ったものですからあえてお聞きをしました。お許しください。
 それでは、次に佐竹公述人にお伺いをします。
 佐竹さんは、かねてからのご主張のなかで、頑張っている教員を徹底的に支援をすることは必要だというふうにおっしゃっていて、それは処遇面のことはさておいても、その教員の過重な負担をやっぱり取り払うべきだというふうなことが大事であって、そのためには人員配置はやっぱり必要ではないかというご主張をされていると思うんですが、この点については、いまの新しい職の問題と絡めて佐竹さんのご意見がございましたらお願いをしたいと思いますが、いかがでしょうか。

公述人・佐竹 勝利・鳴門教育大学学校教育学部教授
 学校の教育現場というのは非常に忙しいという話はもう誰でもよくおっしゃっていることなんですけれども、したがって、例えば非常に分かりやすいのは、人手が十分保障されればかなりそれは違ってくるだろうと思います。よく現職の先生たちに聞きますと、とにかくぎりぎりの人数というか、定員で、定数でやっているのだということですから、そういう点からいきますと人員が増えることは結構なことだと思います。先ほどおっしゃった副校長、主幹が別枠で定数として張りつくのであれば、人数が増えるわけですから、その点では結構だと思います。
 ただ、私は先ほど申し上げましたように、いわゆる管理の権限というのもそれぞれ法律で規定されるわけですね。そういうような管理的なヒエラルキー(職階級)というか、これが入ってくるということで教師の自主的な教育実践というのが阻害され、阻害というか抑制される可能性があると。何か上を見るような、そういうことになりかねないというふうに思いますので、そういう点ではいささか問題があると思っております。

水岡 俊一・議員
 それでは、佐竹さんに続いてお伺いをしたいのですが、佐竹さんは書物のなかで、中教審答申と、それから教育再生会議の第1次報告について述べておられて、明確に、中教審答申は、この教免法にかかわっては指導力不足教員排除を目的とするものではないと言っているけれども、教育再生会議の報告でははっきりと、教員免許状を取り上げるなど不適格教員に免許を持たせない仕組みとすると明記をしていると、こういうふうに指摘をされておられるのですね。
 多くの教育関係者が、いまの教育改革を進める上でいろんなことを考えていかなきゃいけない、でも、それは十分慎重審議をしながらやっていきましょうというなかにあって、いま教育3法がこういった日程のなかで提案をされている。
 ここは佐竹さんとしては、個人的には、教育再生会議の意向が強かったのか、中教審答申の意向が強かったのか、さて、はたまたそうじゃないのか。そういった辺りについては何かご意見がございましたらお聞きをしたいのでありますが、いかがでしょうか。

公述人・佐竹・鳴門教育大学学校教育学部教授
 ちょっといまのことについては、私、情報が必ずしも得ておりませんので分かりませんが、私の聞いている、あるいは資料を見た限りにおきましては、中教審は、当初は指導力不足教員を排除するということがねらいではないというふうに言っておりましたけれども、それでいったん棚上げにして、もう一度出てくるときにはそうでないのが出てきたんですけれども、それは教育再生会議の意向が強く反映しているんではないかというふうに思います。つまりは、安倍内閣の方針だろうと思うのですが、そういう意向が反映しているだろうというふうには思います。ただ、何が直接そういう原因だったかということについては、正確にはお答えできません。

水岡 俊一・議員
 一つ私たちが気にしているのは、この免許更新制においてはすべての教員がその対象になるのだ、もうその趣旨を生かしていくとすれば、そういうふうに思っていたのですが、どんどんと話が進んでいけば、勤務実績を考慮して一定の人たちにはその免許更新の必要性がないんだというようなことをいう中身が見えてきました。これは少々、少々ではなくて大きな問題になってきたのだなというふうに思っているわけです。それは、いま、私が申し上げるような不適格教員を排除するための考え方に結びついていないかという考え方がそこに私はあるからなんですけれども、それについては、佐竹さんはいかがお考えでしょうか。

公述人・佐竹・鳴門教育大学学校教育学部教授
 私も多分そうではないかというふうに思います。というのは、勤務実績を考慮するということは、学校のなかで勤務に問題がない、非常に優れている、頑張っているという教員については更新をわざわざする必要がないという考え方と、一方で、そうでない人にねらいというかターゲットを向ければ、そういう形の更新制を進めていくということになると思います。
 しかし、更新制のメリットをもし考えるとすると、より教員自身の質の向上であるとか、職能成長とかいろいろありますが、それを高めていくということであれば、私は基本的には全員が対象ではないかというふうに思います。
 ただし、その方法は、こういうふうに実績を考慮して免除するのもあるというのは、おそらく到底、全員対象で、先ほど問題点、指摘しましたけれども、講習をやることができるかというと、どう考えても無理じゃないかというふうに思うわけです。多分、大部分をわれわれが担当するんじゃないかと思いますけれども、それは大変な問題だということです。そういうこともあると思います。

水岡 俊一・議員
 そのことに関連して少し質問、また追加をしたいのですが、現在、教員免許状を持って全国で教職に就いている人たちは約105万人と言われているわけです。そうしますと、これを10年ごとに免許を更新していくといういまのプラン、政府の提案のプランでいきますと、単純に計算して、1年間に10万人を超える人たちの免許を更新していかなきゃいけない。それをいまの大学の教育学部あるいは教員養成大学あたりを中心にして更新をしていくということになります。これは10万人、加えて、実は学校の現場には4月、5月に臨時採用教職員がかなり入ってまいります。そういった人数を加えますと莫大なというか、膨大な数になるわけですが、それを、いまの佐竹さんがいらっしゃる鳴門教育大学から見た視点からすると、可能性としていかがなものというふうにお感じになっているかお聞きをしたいと思うんですけれども、いかがでしょうか。

公述人・佐竹・鳴門教育大学学校教育学部教授
 その1年間10万人のうち、そういう計算はあまりしたことないんですが、特に例えれば、多分地元の大学でということでしょうから、徳島県の先生方は鳴門教育大学でということとなると思います。けれども、その場合の人数がどのぐらいかというのをちょっと計算しておりませんが、ちょっと大変だろうなというふうに思います。私は、そういう、何というのでしょうか、手続といいましょうか、実際の運用上の問題も大いにあると思います。
 しかし、先ほども申しましたように、例えば大学へ来て30時間程度、講習することで本当に質の向上につながるのか。ねらいはそのはずですね、何というか、メリットの方のねらいは。そちらの面からいいましてもかなり無理があると、そういうことでございます。

水岡 俊一・議員
 じゃ、もう1問だけ。
 民主党案は、10年間の更新という部分は一部に残ってはいるのですが、基本的にメーンは、10年を経験することを一つの目途にしながら、1年間の大学院での研修を考えているんです。先ほど佐竹さんは、2年ぐらいを、いま、鳴門教育大でもやっているし、いいんじゃないかというお話もありましたが、1年ではやっぱり少ないと思われますでしょうか。その点についてどうお考えになりますか。

公述人・佐竹・鳴門教育大学学校教育学部教授
 これは、現在、私どもを含めて3教育大学ではもう必ず2年ということになっていまして、これは非常に経費が掛かるので、その他の地方の先生方については、地元の大学で最初の1年間だけ大学へ通ってスクーリングをやって、次の1年間は実務に就きながら時々大学行って論文まとめるということでございますね。これは経験者の話によりますと、つまり、いわば院生、あるいは修了生でもいいですけれども、受けた方、それからわれわれ指導教員の方、この両方からこれは大変だと。中身を変えないと、いまの現状ではちょっと無理があると。勤務をしながら研究をまとめていくというのは、もう本当にこれは大変なことだと思います。
 だから、そういう点では1年というのは少し無理があると思いますので2年というふうに申し上げたんですが、更新がねらいで、いわゆる研究的な修士論文をまとめるとか、もちろんその研究といいましても、ちょっと誤解があったらいけないんですが、教育実践についての研究ですね、そういうものでなくていいというような条件をつけて、それ用の新しい学位を、修士をつくるということで進めていけば、それはそれでいいんではないかというふうに思います。
 私は短期の、そういう夏休みだけでもできるような短期の更新講習というのはどうもやっぱり賛成しかねるということです。

水岡 俊一・議員
 それでは、最首公述人にお伺いをしたいのであります。実は、民主党案は教育委員会を発展的解消していこうではないかという内容なのです。それで実際には、教育委員会のなかの教育委員会事務局は首長部局の方に統合して、執行権を、主体性を持ちながらやっていくという教育委員会の変身と、学校は、学校理事会で、学校長を中心とした組織で主体性、責任を持ってやっていく、それから、教育監査委員会というのを設けて、これは完全なチェック機関としての機能を設けながら、首長に対しても、学校に対してもきちっとした意見を述べていくというシステムを考えているわけであります。そういった民主党案について何かこれまでのご経験からご意見がございましたらお聞かせをいただきたいと思いますが、いかがでしょうか。

公述人・最首 輝夫・前市川市教育委員会教育長・元船橋市立金杉台中学校校長
 そういう考え方がいろいろいま、出てきております。いままでも出てきております。つまり、そういう意見が出てきたということ自体が、教育委員会が無能化している、形骸化しているということを世間が知ってきたということだろうと思うんです。ですから、現在ある教育委員会をそのまま残すのであれば、いま民主党案でいろいろご説明があったような、そういう発展的解消というのは考えられることだろうと思っております。
 ただ、教育委員会というのは歴史もありますし、それからなじみもありますし、役割もしっかりしたものを持っています。ですから、これを本当に、まあ言葉で言うと抜本的といいますね、いままでのような教育委員会から殻を破って新しい教育委員会にすると。そのための制度をつくって生まれ変わらせる、そういう考え方があればいまの教育委員会でいいんではないかと思っています。
 現実は、やはり教育委員会というのは責任を持てない、持たないといいますが、責任がないんですよね。ですから、責任の取りようがない。取るとすれば指示、命令を学校に出したときに責任を取るのですが、それが教育委員会自身が出した命令か文科省から来た命令かによって責任の取り方って違ってきます。
 それが一つありますし、それから、教育委員が月に1回程度の会議をやるということで、実質的には施策能力、政策立案能力というそういう能力も持っていないと。名士が集まってきて、結構ですというのが実態だったわけですね。そういう教育委員会ならば要らないというふうに思います。
 ですから、教育委員会を再生するということを、まず第1に考えることが先ではないかな。駄目ならば、いまお話がありましたように首長部局に持っていくとか、理事会をつくるとかという案があると思いますが、一番の首長部局に持っていくということは政治的な中立性が揺らぐ可能性というのはかなりあります。私の経験からして、首長部局に教育行政を持っていったらそうなるということは目に見えていましたから、それだけはちょっと賛成できかねるというふうな意見でございます。

水岡 俊一・議員
 終わります。

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