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2006年12月6日 第165回国会 教育基本法に関する特別委員会
政府案「教育基本法案」、民主党案「日本国教育基本法案」等

甲府地方公聴会
甲府市 ベルクラシック甲府
公述人
 浅川 宏雄 山梨県高等学校PTA連合会事務局長
 黒沢 惟昭 山梨学院大学法学部教授、山梨学院生涯学習センター長
 小林 和紀 川崎市立川崎高等学校教諭
 喜多 明人 早稲田大学文学部教授

公述人意見聴取

新しい時代を担う子どもたちのために、
政府の教育基本法案の早期成立と教育予算の一層の充実を

山梨県高等学校PTA連合会事務局長 浅川 宏雄 

公述人・浅川 宏雄・山梨県高等学校PTA連合会事務局長
 私が教育の現場を去って7年になりますが、いまもって心にずしんとこたえますのは、若者の非行や犯罪のニュース、さらには、30数年前に教壇から見送った、いま50代の働き盛りの社会の中心を成す大人たちの一部が様ざまな分野で引き起こす残念な行状の数々です。責任重大な交通加害事故から、かっ払いや暴力や殺人や子どもの親殺し、若い親の子殺し、詐欺、横領、地位利用の公務員の不正、特につらくて情けないのは、元気な若者が路上生活者や老女、果ては車いすの身体障がい者からさえ、あるいは特にそういった弱者に絞ってハイエナのごとく平気で金品を強奪する事件の報道等であります。やりきれない思いで、われに返ると、一体なぜ、とこう自問しながら、自らの責任も思い返しながら、やっぱり教育のせいかなとの結論にたどり着くのであります。
 弱者から奪うというのは、本来人間としての自分への嫌悪感と裏腹のためらいの行為ではなかったか。あるいは、よしんば他人に刃を向けることがあっても、自らの親や、まして自分の腹を痛めた子をあやめるなどということが、こんなにありふれた事件になってしまうものなのでございましょうか。かつて、そこに超えられぬ何がしかのたがが、あるいは歯止めがおのずとあったのではなかったか、一体それがいつどこへ行ってしまったのだろうと、唐突かもしれませんが、そんな素朴な思いが、いまの私の教育基本法問題との接点となります。
 私は、現在、山梨県の高等学校PTA連合会にご厄介になっておりますが、2003年の7月、そのPTA連合会の関東地区の大会が、わが山梨で開催されまして、その時の大会宣言の起草にかかわりました者ですが、その時の考えがいまの私の考えとも重なりますので、少し引用させていただきますと、次のようでございます。
 21世紀を目前にした2000年12月、前首相、森元首相でございますが、の諮問機関の教育改革国民会議はその報告書で、いじめ、不登校、校内暴力、学級崩壊、凶悪な青少年犯罪の続発など、教育をめぐる現状は深刻で、このままでは社会が立ち行かなくなってしまうと、今日の日本の教育が未曾有の危機に直面しているとの厳しい認識を示した。その上で報告書は、いままでの教育は個人が要求することを主力に置いたものであったが、これからは、与えられ、与えることの双方が個人と社会のなかで温かい潮流をつくる方向に向かわねば、日本は将来取り返しのつかないことになるだろうと続け、希望を語るべき新世紀を前に悲壮な警告を発せざるを得なかった。
 戦後日本は、過去への反省から、社会のありようを民主的で個人が尊重される個人第一主義へ大きくシフトしました。それは当初、過去を清算する新生日本の希望の理念として大歓迎された。しかし、それから半世紀あまり、かつての公、国家でございますが、その公偏重へのアレルギーもあって、その後の過剰とも思える個人重視の風潮は、いつしか結果的に私と公の望ましいバランスを超えた、私至上主義の利己的で無秩序な社会をつくり上げてしまったと言えないだろうか。
 私と他者、その総体としての社会、そうした大きな秩序への配慮を軽視し、ギブとテークのバランスを欠いた個々人の他者への一方的要求、主張のはんらんこそが今日の社会や教育の混乱と閉塞(へいそく)を招いた一大要因と言って差し支えないだろう。
 個人の安寧(あんねい)、幸福は社会という安定した土台があって初めて成り立つというあまりにも自明な理を、われわれは今日から学校教育の場で、同時に自らの家庭で子どもたちに改めて説き諭すところからすべてを始めなければならないのかもしれない。こういうふうにしておりまして、これが宣言でございます。
 いまもその宣言を起草した当時の思いはほとんど変わっておりません。何とかしなければと、元一教育者としてのそんな思いが、戦後60年と言われる様ざまな見直し、改革の流れのなかで、私に教育の改革への関心、あちこちから起こった教育基本法の見直しの動きに若干の期待の気持ちを抱くようになり、今日につながっております。
 時間の関係もございますから、今回の政府の教育基本法改正案の特に重要と考える点を端的にこれから5点ほど述べさせていただきます。
 まず、第1点は、第2条の教育の目標に公共の精神が盛り込まれた点でございます。
 戦後のわが国の教育は、戦前への反省に立ち、個人の価値に重点を置きながら進められてまいりました。個人の価値は普遍的な理念であり、今後とも教育において重視しなければならないことはもちろんでございます。しかしながら、これまでの教育においては、個人の価値とセットになるべき公共の精神が必ずしも十分に尊重されてきたとは言えなかったのではないでしょうか。このことが、自分さえ良ければといった、いまの風潮にもつながっているのではないか。どうでしょうか。
 しかし、人は、人とのつながり、社会を形成するなかで、互いに思いやり、助け合いながら生きるものであります。いまの子どもたちにそうした気持ちがないとは考えたくございません。そうした気持ちを体験する機会が少ないだけではないかというふうに思うわけであります。実際にボランティア活動などで人と助け合い、誰かに喜ばれる経験をすると生徒たちの目は輝き出します。そうした人としての当たり前の基点を教育の根本法であります教育基本法で再確認することは大切なことだと考えます。
 第2点目は、これも第2条の目標の一つとして、日本の伝統、文化の尊重、郷土や国を愛する態度が盛り込まれたことです。
 国際化が進むなかで、国際社会の発展に尽くすことが、いま一層求められています。その際の前提は、まず自分の国や地域の伝統や文化を理解すること、日本人としての自覚や郷土を愛する姿勢等でありましょう。その上で、他国やその地域の伝統、文化を尊重し、国際社会の一員として信頼されることを目指すのが重要でありましょう。
 英語教師としての個人的経験からも、外国人と接したとき、相手が知りたがる自国のことをうまく説明できなくて冷や汗をかいた苦い経験が思い出されます。まず、自国をよく理解し、愛していることが何よりも大切になると思います。こうしたことはこれまでも学習指導要領で指導が行われてきたはずですが、今後、基本法に明記し、一層の指導の充実を図っていく必要があろうかと考えます。
 第3点は、第3条に生涯学習の理念が明記されたことであります。
 現在、私はPTA関係の仕事をしておりますが、これも生涯学習の一環を形成しております。教育は学校を終えた段階で終了するものではありません。教育の目的は人格の完成を目指すことでして、生涯にわたって追求をされるべきものでしょう。生涯を通じて社会のなかで生き生きと自分を生かすことができるような、そんな社会を実現していくことが強く求められていると思います。問題のまたフリーターやニート問題の解決にも、こうしたいつでも学んで再びチャレンジすることのできる社会の実現が極めて重要であると考えております。
 第4点でございますが、第10条として家庭教育についての項目が盛り込まれたことでございます。
 家庭教育はすべての教育の出発点であり、その重要性は時代にかかわらず不変なものがあります。しかしながら、最近は親による子どもの虐待など悲惨な事件が相次ぎまして、家庭の教育力の低下が問題視されております。こうした事態の改善のためには、まず親が子どもとしっかり向き合っていくことが重要であり、また行政等も側面から家庭教育の支援を十分に行っていく必要もあると考えます。このような点で、家庭教育の重要性が盛り込まれたことは一定の評価ができると思います。
 第5点目でございますが、第13条に学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力が盛り込まれたことでございます。
 言うまでもなく、教育は学校だけで行えるものではございません。学校とともに家庭、地域における教育が相互に連携して、社会全体で子どもを育てるという意識を共有することが大いに必要であろうと思います。
 しかし、現実にはコミュニティーの人間関係が大変希薄化しておりまして、ひどい場合には、隣に住んでいながら住人の顔も知らないというような状況もあり、社会全体で子どもを育てる状況にはほど遠いケースが多々あるようでございます。これからの教育を考えていくとき、われわれがもっと考えなければならないのは、自分の子どもとともに、地域のほかの子どもたちにも手を差し伸べていくことではないでしょうか。私たち高等学校PTA連合会が取り組んできましたアンケート調査の結果からも、人間関係が希薄であることが高校生を万引きや暴力、自傷行為などの様ざまなリスク行動に走らせてしまっていることが明らかになっております。地域の教育力の再生こそが急務でありまして、学校、家庭、地域が連携して、大人が本気で子育てにかかわり、進んで公共の精神を発揮していく必要があり、その意味で第13条は非常に意味があるかと考えております。
 雑駁でございますが、以上、教育基本法改正に関する私の素朴な感想や意見を申させていただきました。
 新しい時代を担う子どもたちのために、政府のご提出なさった教育基本法案の早期成立を図るとともに、施策を裏づける教育予算の一層の充実をぜひよろしくとお願いしながら、以上で私の素朴な意見発表を終わらせていただきます。


政府の改正案では、「全体の奉仕者」と「国民全体に対する直接責任」を削除、
国民ではなく国家へ奉仕するということを考えているのではないか、と心配

山梨学院大学法学部教授、山梨学院生涯学習センター長 黒沢 惟昭 

公述人・黒沢 惟昭・山梨学院大学法学部教授、山梨学院生涯学習センター長
 私は、いま急に教育基本法を改正する意味とか、必要があるとはどうしても思えない立場なのでございます。これは大変議員さんに対し失礼かもしれませんけれども、そのような印象を持っております。ただ、教育基本法というのは別に不磨の大典ではございませんので、いずれ時代がそれを要求すれば改正をすることに別にやぶさかではございません。
 しかし、教育は危機的な状況にあるということは、十分認めるに決してやぶさかではございません。
 例えば、その一つの例を挙げれば、1999年から2006年までの間に正社員が439万人減る一方、非正社員は669万人増えて、雇用者数に占める非正社員の割合は3人に1人が非正社員という事態が報告されておりますし、15歳から24歳の若年層では実に2人に1人という状況でございます。しかも、非正社員は年齢が上がっても正社員のように賃金の上昇カーブが働きませんから、所得格差の固定化につながります。これが婚期や少子化に波及し、年金、社会扶助など社会関係資本の存続にも影響しておるわけでございます。
 一方、以上のような縦の格差は、地域間格差に連動し、地方都市の衰退化などが顕著になっている例は皆さんもご承知だろうと思います。こういう傾向とともに、社会の凝集性が損なわれ、社会的紐帯(ちゅうたい)は断片化していかざるを得ない、これはすでに周知のことと思うのでございます。
 これが教育基本法改正によってすぐ直るというようなふうに私は到底思えないのでございます。これは市場原理主義の遂行によって事態が進行しているのでありまして、教育基本法を改正する前にもっとやるべきことが多々あるのんではないだろうかということが、私が考えていることでございます。ということを前提にいたしまして、教育基本法の改正について私見を率直に申し上げたいと思います。
 まず第1点は、第2条の教育の目的ということについてです。これもいろいろ議論のあるところでございますが、あえて私の意見を率直に申し上げます。
 改正法第2条につきましては、教育目標に多くの徳目が盛り込んであることが目立ちます。現行法の教育の目的についても学会等でいろいろ議論があったところでございますが、今回は現行法の約4倍近いいろいろなものが盛り込んでございます。これは読めばすぐ分かるところでございますが、1から5にわたって幾つかのことが盛りだくさん盛り込まれております。道徳心とか、公共の精神とか、生命の問題とか、伝統とか、愛国心の問題とか、郷土の問題とかですね。
 特に私は議論を呼んでいるところが愛国心の問題ではないだろうかと思います。私個人としては、日本の国を心から愛しているものに人後に落ちないつもりでございますが、これを法律、特に教育の基本の法律によって規定するということはいかがなものか。大変これは弊害があるところではないだろうかというふうに私は考えざるを得ないのです。特に、法律によってこれを強制するということは極めて危険ではないだろうかと、私は考えざるを得ません。
 特に、日の丸・君が代の例を出すことがいい例だと思いますが、最初は、これは大丈夫だというように言われていたのですが、東京都の例などを見ましても、また裁判所の判決の例などに見ましても、いろいろな問題を生じておりまして、現場の教員が非常に萎縮しているという例は先生方もよくご存じではないでしょうか。これが教育基本法の改正によって法律としてきちっと決まってしまうと、大変な混乱を起こすことになるというふうに私は考えるわけなのです。だから、これは、ぜひ、やめてもらいたいなというのが私の率直な気持ちです。
 国を愛するということは、自然な感情でありまして、むしろ愛するような国をつくっていくことが大事で、そうすれば自然にそういう感情は起こってくるのではないでしょうか。
 それから、国というふうに一般に言いますけれども、政治学の常識として、国というものは領土とか、権力あるいは国民と三つの要素から成っているわけでありまして、国というのは一体何かというものを、もうちょっと細かく分けて教えたり考えたりする必要があるだろうということで、私は国というものを愛するということは大変大事なことだろうと思うんですが、これを法律によって強制していくということは大変危険であるから反対せざるを得ません。
 こういう徳目というものを盛り込んでいくというのは、ちょっとこれは考え過ぎかもしれませんけれども、戦前の教育勅語を何か連想させるような危険性があるのじゃないでしょうか。国を愛するということは大変大事だと、これは前提としまして、なお懸念を表明せざるを得ないという点が第1点です。
 それから第2は、第3条の生涯学習の理念でございます。
 私、生涯学習の専門を教える者ですが、何か社会教育法の考えと齟齬(そご)をする面が見られるような気がするんです。社会教育法の規定で十分であって、ここになぜこの生涯学習の理念というものを改めて規定しなきゃいけないのかということに、ちょっと私は違和感を感じるんです。
 ちょっと勘ぐりかもしれませんけれども、学校教育以外の領域に教育基本計画による資金を配分するために、わざわざこれを規定したのじゃないかという、これは私の勘ぐりかもしれませんが、ちょっとそういう印象を受けたものですから、疑問として提起したいと思います。
 それから3番目でございますが、第7条の大学でございます。
 私は高等教育に従事している者ですから、高等教育を盛んにするということについては異存がないわけですが、様ざまある校種のなかで大学についてだけこの目的を定めているということは、全体のバランスを欠いているというような印象を、どうしても受けざるを得ない。
 これもあるいは勘ぐりじゃないか、考え過ぎじゃないかというご批判を受けるかもしれませんけれども、やはり国際競争力を回復するための知的資源の動員のためにあえて高等教育に重点を置いたのではないだろうか、教育改革はその手段ではないかという、これも勘ぐりというご批判を受けるかもしれません。なぜ高等教育だけを突出してこういう規定をされたのかという、これも私の批判点でございます。あえてこの点も申し上げたいと思います。
 それから4番目は、第9条の教員でございます。
 これは、教員にもいろいろ問題があるし、教員に頑張ってもらいたい。私も教員の端くれでございますので自分のこととして考えたいと思いますが、全体の奉仕者というものが削除をされております。これはどうして削除をされてしまったのかということについて、私は大変不安を持っております。これと関連しまして、第16条の国民全体に対する直接責任というものも同時に削除をされております。
 これも勘ぐりだと言われればそれまでかもしれませんけれども、これも、これとあせて考えますと、あえて、私の考えでございますが、国民ではなくて国家へ奉仕するということを考えているんではないだろうかと、どうしても心配をするわけです。
 教師は崇高な云々という文言、まあ、これはこれでいいとしまして、教師が伸び伸びとその使命を果たしていただきたいという、これはもう当然私も、先生方もみんな考えていられると思うんですが、最近どうも教師に対するバッシングが強い面がございます。だから、評価をして、こう競争させて、たたけばいいのだというようなこと、一定程度、そういうことも必要かもしれませんけれども、そういうことでいいんだろうかということを考えざるを得ないわけです。
 そして、教師が一体どこを向いているのか、ヒラメのように上ばっかり向いている、あるいは校長さん、管理者の方だけ向いていていいのか、その管理者もさらに上の方を向いている、そんな教師で本当に教育ができるのだろうか。教師というものはそういう教師でいいのだろうかと、私は、それは本当に間違っていると思うのです。
 ですから、ぜひ、そんな文言があっても、なくてもいいのんだというふうに考えるのは大きな間違いでありまして、国民全体に奉仕するということを入れることによって、教師が伸び伸びと国民全体に対して奉仕する、そういう教師こそ、本当の教育が担保できるというふうに私は考えます。現場を回ってみて本当にそういうことを考えるのですね。これが削られることによって、どうも上を向く、管理者の方を向くのじゃないだろうかという心配があります。これが4点目です。
 それから5点目。これはちょっと私、専門外なので自信がちょっとないところなのですが、不安として、改正案では、「父母その他の保護」に「子の教育について第一義的責任を有する」と変更されております。現行法では社会教育のなかで家庭の問題というものは奨励というふうな軟らかい表現になっているんですが、昨今の家庭教育の低下ということを心配されて、あえてこういう表現になったと思いますが、ここはちょっと考えていただきたいですね。
 家庭教育を、かなり皆さん考えられて、こういう法律になっていくということについて、私は理解するものでございます。そして支援するということの重要性は十分私は認めますが、公法があえて家庭のこういうプライバシーのなかにまで法律として介入するというようなことについては、現行法についてもいろいろ専門家の間で議論があったところでございます。これは子どもの権利というものと何か齟齬(そご)はきたさないのでしょうか、ここは十分議論されたんでしょうか。
家庭の教育力を取り戻すということだけでこういう規定になる、そして、そういうことを侵害していくようなおそれはないか、どうか、もうちょっと議論をする必要があるんじゃないだろうか。公法が家庭教育の内容まで踏み込んでよいのか、疑問が残るところでございます。
 以上、5点にわたって私の疑問、あるいはお願いを申し上げました。


いま求められる教育行政は、減点、懲罰主義の管理主義ではなく、
褒め、たたえていく加点主義、予防・修正主義の教育支援体制

川崎市立川崎高等学校教諭 小林 和紀 

公述人・小林 和紀・川崎市立川崎高等学校教諭
 今回、なぜ川崎から来たのかという話もあるのですが、私自身、約10年弱、この山梨の地で公立、私立にわたって教員生活を過ごさせていただきました。クラブ活動では2種目でインターハイに行かしていただくことができまして、また1996年の山梨のインターハイでは、本当に大変ななか、自分自身もいろんなところで運営をお手伝いしていたなかで、本当にこの地でいろいろな思い出をつくらせていただきまして、現在の仕事に至っております。また、それ以外のところでも、専門学校の専任講師をした経験、また、最近、特にこの数年大きく変わってきた生徒、保護者の教師への見方、この辺を、まだ30代ですが、本当に若造で申し訳ございませんが、現場の声として述べさせていただければと思っております。
 最初に、私自身が思っているのは、今回の教育基本法に対しての様ざまな改正、いろんな話があると思います。いろいろな意見があると思いますけれども、私自身、本当にいま、毎年、毎年、来る生徒、来る生徒がどんどんどんどん変わっていく姿を見たときに、やはり国全体で、大きなところから何かを起こさなければ、1ミリでも2ミリでもいいから何かを変えていくという流れをつくっていかなければならないのではないかと思っております。それが、当然いい方向、悪い方向があると思いますし、途中で止まるものではないとは思っておりますけれども、そういった意味での改正というところで、多くの国民の方々が論議に参加する形というのがとてもすばらしいかなと思っております。
 そこで、私自身、教師というところの資質の部分でお話を最初にさせていただくのですが、生徒一人ひとりの人格の完成に大きく影響するのが、やはり、そのすぐ近くにいる教師の存在ではないかなと思っております。子どもにとって最大の教育環境というのは教師であり、常に向上していく教師の姿が子どもにとって大きな影響を与えていくのではないかなと思っております。生徒にとって魅力ある、また、すてきな人格を教師自身が日々磨き続けていかなくてはならないのではないかと思っております。
 まず、この魅力ある教員というものをいかに増やしていくか、また、授業を始めクラブ活動、委員会活動など、生徒とかかわる機会に人格の触発を与えられる、いい意味で与えられる教員をいかに多く社会全体が育てていくかが、私は最重要課題であるかと思っております。先ほど黒沢公述人からありましたけれども、残念ながら教師の不祥事の衝撃的な報道による全体への教師の不信が信頼関係の構築を非常に阻害していると思っております。ゼロからの人間関係のスタートではなく、マイナスからのスタートという意味では非常に苦しい現実があると思います。
 そして、いま求められている教師像とは、そつなくこなす教員ではなく、学ぶ楽しさ、生きるすばらしさを、情熱を持って、また、工夫して生徒にぶつけることができる教師であるかなと私自身は思っております。
 特に、最近様ざまな部分で増加する減点主義というか、懲罰主義というか、そういった管理体制を脱して、褒めていく、たたえていく加点主義、また予防していく、修正していく予防・修正主義、こういう教育支援体制の教育行政が求められるのではないかと思っております。私もかつて恩師に、育てるとローマ字で書いてごらんと言われました。ローマ字で育てると書いて、頭のSを隠してごらん、おだてるとなるんだよ、教育というのは励ましながら、激励しながらやっていくものだということが、いまでも非常に心に残っております。
 ただし、これは実際に現場で感じる、どこの学校でも感じることなのですけれども、協調性のない、自分のことしかしない教員に対しては、厳しく話をしていかなければならないと思っております。私自身の経験上、一人いるだけで教員間の教員組織全体の士気が著しく低下するおそれがある、このことに対してはしっかりした指導が求められると思っております。
 また、9条の教員のところの部分についてですけれども、養成と研修の充実ということが示されていると聞いておりますが、魅力ある授業ができる教師というより前に、常に向上していく魅力ある一個の人間でなければ、教師は務まらないのではないかと思っております。
 特に、受講型の研修が多くあると思います。学識経験者の研修等ありますけれども、実際のところを考えると、参加型、作業型の研修でなければ実際に効果がないと思っております。特にベテランの先生方に対しては、他職種を知るだけではなく、他職種で実体験をさせるため、長期間にわたる派遣研修などが望まれると思っております。
 また、新規の採用試験については、内容に多様な、選考に工夫、また、一定期間の見る時間、また、一定期間のところで、かかわる時間を持った上での選考というのも、これからは必要になってくるかと思っております。
 私自身の体験を話させていただきますが、私自身、山梨の教員を退職しました。そしてその後、先ほど申し上げたとおり専門学校の専任講師になりましたが、その間、失業保険をいただく時期がありました。妻子いるなかでの失業保険ということで非常に厳しい現実を見せつけられました。また、そういったなかで次にどうなるのか、明日どうなるのかということを考えるなかで、本当に死に物狂いで様ざまなところを受験し、様ざまなところに履歴書を送り、そして何とか勝ち取ってきたいまがあります。そのときの火事場のばか力というか、追い込まれた状況になった時に本当の意味で自分自身の殻を破ることができ、いま、より広がりのある授業の展開ができるようになったことを踏まえてこのような話をさせていただきました。
 そして、そのなかで様ざまな、特に専門学校等ですけれども、いろいろな教育産業を見ていくなかで、いままであった教師として、また生徒に対してのあいさつの仕方であるとかそういったものについて、ふと一般の社会に出たときに、教師として身についてしまったアカを自分自身はそぎ落とされた感じで、またもう一回、新たに初心の気持ちで頑張ろうと日々思っております。
 教育の目標については、すべての万物の関連性ということを考えれば、いまいる場所と周囲の人を大切にすることができなければ、どうして自分自身を大切にすることができようかということにつながると思っております。学校、家庭、地域が連携し合い、地域の子どもを地域全体で育てていく、教育のための社会であることが大切であると感じております。地域社会全体で子どもたちに強く良い刺激をどれだけ与えられるかが重要になってくると思っております。その意味で、地域の役割について法律で示されたことはとても心強く思っております。
 また、一般の今年の採用の状況、社会全体が学力より問題解決能力、コミュニケーション能力などを求める、人材に変化している状況を踏まえ、学校も生徒児童に対し学力という角度に偏り過ぎることなく、特別活動、なかんずく学校行事を中心に学校全体で取り組み、多角的に生徒に光を当てていくことが大事であると思っております。
 生徒というのは、いろんなところで光が当たる、自分はできるんだ、自分のクラスのなかでなくてはならない存在なんだと、そういうところの部分が出てくるところで生きる力、また、喜んで学校に行く、そこのなかで一つひとつ教科等で、いろいろなものを学んでいこうという気になっていくと私自身は思っております。様ざまな場面で、やればできる、自分は周囲から必要とされているという感覚を持たせることが生きる力につながると私は考えております。いかに子どもをその気にさせるかが重要であり、それに費やす時間と工夫が教師に求められると思います。
 これを確保するためには、各種の書類作成の精選が求められるかと思っております。情報公開に堪え得る資料作成の時間より、子どもにかかわる時間を増やさなくては、何のために学校に勤務しているのか分からなくなってしまうと私自身は思っております。
 また、家庭教育に関しては、保護者に対する学習の機会について、善に関する態度、善に関する言葉の啓発を推進していただきたいと願っております。また、幼児期の教育についても同様のことをお願いしたいと思っております。具体的には、勇気、努力、忍耐、正義、希望、愛などに対する行動を堂々と振る舞う姿を子どもは求めていると思うからでございます。
 そして、今後になるかと思いますが、教育振興基本計画のなかでのお願いですが、ぜひ気軽に安心して相談できる窓口を学校以外、行政機関以外に、多くのところでそういうところを設置していただいて、いつでもどこでも話が聞かれる、また、それが変なところに広まることなく、そういう安心して相談できる窓口というのをぜひ多くつくっていただきたいなと思っております。
 また、読書というのが非常に、いまは注目をされていますが、さらにそれをより進めて、じっくり考え、そして自分自身のことに当てはめ、悩み、考え、自分の力で答えを探し出す力、こういったものに力を置いての基本計画を願っております。


子どもの教育のあり方について、大人側だけで決めることは、
社会を支える市民として活動し、成長していく子どもたちの機会を奪う

早稲田大学文学部教授 喜多 明人 

公述人・喜多 明人・早稲田大学文学部教授
 限られた時間ですので、私の意見陳述は、今日の子ども問題の根幹にかかわる事柄に触れながら、その解決のために教育基本法改正問題において何をなすべきか、この1点に絞って述べさせていただきたいと存じます。
 まず第1に、今日の子ども問題の基本としての自己肯定感の低下の問題でございます。
 言うまでもなく、いま、日本の子どもたちは苦しんでいます。いじめを苦にした自殺の連鎖はとどまることなく、極めて深刻です。その深刻さは、1986年に東京都中野区で起きた鹿川君事件、1994年に愛知県西尾市で起きた大河内君事件の際の連鎖問題とは比較になりません。私は、この深刻な事態を招いてきた基本的な問題の一つは、日本の子どもたちの自己肯定感の低下、むしろ低下と表現するよりは落下といってよいほどの落ち込み状態にあると考えております。
 レジュメをお配りしていますが、資料1をごらんください。ここでは日本青少年研究所が、今年2006年3月に公表した高校生の友人関係と生活意識の調査結果が示されております。そこで、自分自身について、とても満足と答えた高校生は、日本はわずか6.3%にすぎず、アメリカは34.1%、中国15.6%、韓国11.1%と比較しても大変な落ち込みです。まあ満足を足しても43.4%と5割を割っております。他国はすべて5割以上、アメリカは実に83.3%に上がっています。
 同研究所は、資料2のとおり、2002年11月に中学生の生活意識調査結果を発表しております。そこで、自分に大体満足しているという意識について、日本の中学生は、やや当てはまるを含めても39.4%足らずです。これに対してアメリカは89.6%、中国でも71.0%と、これに比べても大きな開きがございます。しかも、1990年当時の調査結果と比べると、日本の中学生の自己肯定感は47.2%から39.4%と約10ポイント近くダウンしているのです。
 このような中・高校生世代の自己肯定感の落ち込みは、資料3のとおり、文部科学省が2002年度に実施した児童生徒の心の健康と生活習慣に関する調査結果においても裏づけられております。私は自分に価値がないか、他人より劣っていると思うという質問に対して、やや当てはまるを含めると、中学2年生が男女とも87%を超えております。しかも、私なんかいない方がよいと思うという自己否定的な意識を持つ子どもについても、当てはまると答えた中・高校生2年生がほぼ6%、やや当てはまるを足すと、中学、高校ともに2年生が25から30%、4人に1人に上っております。このような意識状況では、いじめなど自分自身が苦境に立たされたときに、何とか立ち直ろう、まだまだ自分はやれるんだ、という気持ちを持つことができるでしょうか。
 自己肯定感は、自分を肯定できる感性や意識であり、立ち直る力、信念を貫く力、生きる力の源であり、自分が受け入れられているという感情をともなって高まるものです。最近はマスコミなどを通して、いじめはいけない、友だちを大切にしてほしいといったメッセージが送られていますが、自己肯定感が奪われていて、自分という存在が受け入れられていない、自分が大切にされていないと感じている子どもが果たして友だちを大切にできるでしょうか。また、自分の命を大切にというメッセージをもらっても、自分という存在を受け止めてもらえずに否定されている子どもたちが、自分という生命を肯定し、生きているだけですばらしいんだ、と感じられるでしょうか。
 これまでいじめ自殺問題に関しては、政府、国会においても大変な努力を重ねておられることについては敬意を表しておりますが、しかし、このいじめ問題解決のかぎを握る子どもの自己肯定感の低下という基本問題へのメスが十分入れられてこなかったのではないかと危惧しております。また、その点については、今回の教育基本法の改定に当たってどれだけ自覚化されていたのか。今回の改定では学校の規律は強調されておりますが、子どもの自己肯定感を高めていくための教育のあり方について十分に検討されていたとは言い難いと思われます。
 では、なぜ日本の子どもたちの自己肯定感がこれほど落ち込んでしまったのでしょうか。その低下の原因について述べたいと思います。
 私は、この落ち込みは大人の責任が大であると感じております。子どもの問題について何事も大人側だけで議論し、大人側だけで何とかしてやろうと思い、大人だけで解決できると考えてきたことのツケであると考えます。子どもは常に問題解決の対象であって主体ではなかった。そのような受け身の立場に置かれて、子どもたちは常に大人を当てにし、大人がいなくては何もできない存在と信じ込まされてきました。自己肯定感の落ち込みは、このような大人の優位、優先社会における子どもの自信喪失状態をよく表現しております。そこでは、子ども問題に向き合う大人側の姿勢が問われているのではないでしょうか。
 教育基本法問題は、そのような意味を含めて、子どもと大人とのいい関係をつくっていくことなど、実際的な子ども問題とのかかわりで検討していくことが肝要であると考えております。
 特に、政府、国会は、子どもとの向き合い方についての見直しを図るよう国際的に要請されてきた文書、すなわち国連「子どもの権利条約」にもっと目を向けていただきたい。残念ながら、この条約は教育基本法の審議において生かされていたとは言えませんし、また子ども権利条約が無視されてきたことによって、今日の子どもの問題をかえって解決しにくくしてきたのではないかとも思われるわけです。
 第3に、子ども支援、子どもの権利の視点からのとらえ直しについて述べます。
 日本は1994年に国連「子どもの権利条約」を批准しました。この条約は、子どもの最善の利益をうたい、子どもを励まし、支援していくために、私たち大人が何をすべきか、その大事な原則を提示してきました。特に、条約12条に述べられているとおり、子どもに影響を及ぼす問題は子ども抜きでは議論しないこと、必ず子どもの意見を求め、尊重すること、この原則について日本政府は国際社会に対して約束してきたことに注目すべきです。
 子どもの権利の保障とは、子ども側の意思やニーズを社会的に承認し、実現していく営みです。この少子高齢化時代を迎えて、ますます大人側の意思やニーズが肥大化し、大人の期待や意思に子どもが押しつぶされそうになっている現時点においては、子どもの権利の視点に立って、子どもの意思とニーズを受け止めていくことが大変重要になっております。
 資料4は、「子どもの権利条約」の普及、実施を推進し、子ども参加を奨励してきたユニセフの提案です。
 ユニセフは、子どもたちは参加する機会があれば、自分たちの周りの世界を変えられることを証明してきた、子どもたちは大人の理解を豊かにし、大人の行動に前向きな貢献をできるようなアイデア、経験、洞察力を備えていると強調しております。
 第4に、これに対して日本政府の子どもの意思決定過程における参加する権利の承認の問題です。
 お手元の資料5は、日本政府がこうした国際状況を踏まえて、条約実施の監視機関である国連子どもの権利委員会に対して報告した文書です。そこで、日本政府は、(d)として、児童が意思決定過程に参加する権利を有する機関及び機会についての情報と題して以下のように述べております。
 129項ですが、近年、国民に広くかかわりを持つ政策立案に当たっては、国民からの直接意見を聴取する機会、今回がそうですが、を設けることがしばしば行われており、児童も国民の一部としてこうした意見表明の機会に積極的に参加することが期待されている。児童に直接関係のある政策分野においても、児童は重要な利害関係者の一部であり、そうした政策の立案には児童も参加させるべきであるという認識は、政策立案に携わる公務員の間で浸透しつつある。こういうふうに日本政府は国連に報告しております。この公聴会もまさにその一部だというふうに思うわけです。
 では、この間、子どもに直接関係のある教育政策の分野で子どもが重要な利害関係者の一員として意見を聞かれてきたでしょうか。いじめは子ども社会のなかで発生しますから、子ども側にこそ解決の力が求められている問題です。そのような当事者である子どもに対して、いじめ問題とかかわる政策判断に際して意見が聞かれてきたでしょうか。そして、何よりも、21世紀の日本の教育の方向性を左右する重大な問題について、子ども、生徒に意見を聞こうという姿勢が大人たちにあったのでしょうか。
 第5に、私は、教育基本法問題の意思決定プロセスにぜひ子どもの参加をと、これで締めくくらせていただきますが、この公聴会で重大な利害関係者である子どもや生徒が意見陳述したという話はまだ私には聞こえてきておりません。このまま子ども抜きで子どもの教育のあり方について大人側だけで決めてしまう、それでよいのでしょうか。何でも大人頼み、大人依存を強めていくことは、ますます子どもの自立をしにくく、自己肯定感を奪っていくことになるのではないでしょうか。しかも、そのことは、子どもたちが私たちの社会を支えていく市民として活動し、成長していく機会をも奪うことになっております。
 残念ながら、日本では子どもの意見に耳を傾けようという姿勢が大人社会の多数意見にはなっておりません。資料6のように、せっかく札幌市内の女子中学生、高校生が教育基本法改正問題を学び、意見表明しても、励ますのではなく、大人に操られているといった発想で学校が責め立てられる事態に至っております。国連が日本政府に対して勧告したように、大人が何でもしてやるといった日本社会の伝統的な考え方が子どもの意見表明、参加を妨げているのです。
 私自身の身近な経験ですが、「教育と文化を世界に開く会」の事務局を担当し、教育基本法問題について文化講座を開いてまいりました。その記録は、岩波書店から「なぜ変える?教育基本法」にまとめられております。私は、この文化講座に度々フリースクールの子どもたちが参加してきたことを思い出します。このフリースクールでは、この子たち独自に、子どもたちが独自に学習会を開いて、例えば2006年の5月26日に教育基本法改正案について勉強会をしたそうです。その際、教育の目標部分で態度を養うという言葉が5回も出てきたことについて、態度で見せるということは、ふりをする、ふりをしなくてはならない、そう感じる、二重人格が増えるんじゃないかな、といった意見が出ていたそうです。
 参議院はこれまで、子どもの声を国会に反映させていくために子ども国会を開催してきました。一度、国会にフリースクールの子どもたちを呼んで意見を求めてもよいのではないでしょうか。この公聴会で終わらせることなく、子どもからの意見をあらゆる方法を使って聴取していただきたいと、ぜひお願いしたいと存じます。それは、私たち大人世代の責任であり、人類としての義務なのだと感じております。そうでなければ、子どもたちはますます自信を失っていく、自己肯定感を低めていくのではないでしょうか。
 良識の府である参議院でこそ、大人だけの教育論議で終始するような時代感覚を問い直し、子どもの教育の基本を問ういまの時点でこそ子ども参加の道を開いていただきたい、その点について、ぜひ、ご検討いただきたいと願うものでございます。


公述人質疑

水岡 俊一・参議院議員
 さて、貴重な時間でありますので早速質問に入ってまいりたいのですが、この参議院での特別委員会、実は教育基本法案、これは政府案、それから民主党案として日本国教育基本法案、そして教育振興法案、さらに新地教行法案というこの四つの法律を一括して審議をしているわけです。この審議というのは、参議院の方でももう50時間を超えたということではありますが、この審議が十分であるのか、いや、まだまだこれからしっかりと深めていかなきゃいけないのか、そういったことについて皆さん方はどういうふうにお感じになっているかということをまずお伺いをしたいのです。
 それで、4人の公述人の皆さん、順に、どう思われるか、そして、それはなぜそう思われるのかということをお述べをいただきたいと思います。黒沢さんには、先ほどとちょっとダブるかもしれませんが、一つよろしくお願いいたします。

公述人・浅川 宏雄・山梨県高等学校PTA連合会事務局長
 大変答えにくい質問でございまして、実は巷間(こうかん)あるいは新聞報道等でも、審議を十分尽くしていないのになぜ採決をするかというようなことがいつも出てくるわけで、これは実際に現場にいらっしゃる先生方が審議をなさっていて、まだ不十分だ、足りないというふうなご意見がきっと出るのかもしれません。私どもは時々国会中継なんかをNHKで拝見しておるわけですが、そこで厳しいやり取りを拝見していて、先ほど50時間ということをおっしゃいました。問題の内容と、それからそれについての皆さんのいろいろな発言の機会、議論の様子、そうしたものが、50時間というのが短いのか、長いのか正直言いまして私にも分からないんですが、専門の方が選出されて集まっている場でございますから、いろんな立場から能率的な意見があれこれ飛び交って、かなりそれなりの進展をなさっているのではないかという気がしないでもないんです。確信はございません。

公述人・黒沢 惟昭・山梨学院大学法学部教授、山梨学院生涯学習センター長
 本当に、さっき申し上げたように、50時間とか、何かそういうふうに聞くんですけど、私どもとしては、学生と一緒に教育基本法について急遽、ここ1ヵ月ぐらいコピーしながら議論をしているんですけれども、喜多先生もおっしゃったけど、学生の方にほとんど反応がないんです。私、法学部にいますから、憲法については確かに多少、多少と言っては恐縮ですけれども、関心はあって、それなりに勉強はしているのですが、教育基本法については、私、逐条読み上げて説明して、やっと、それで関心を持っているんです。いま先生がおっしゃった他の法律については全然関心がない状況なんですね。だから、私、本当に、うちの大学だけかもしれませんけど、情けなくなるほど、無関心なんです。
 それで、ここへ呼ばれるために3日ぐらい前から急遽、私自身も読み直している状況なんです。だから、おそらく、私、教員で法学部にいるという状況ですからかろうじてほかよりは多少とも読んでいる方かなと思いますので、普通の人にとってはもっともっと無関心かなと思うのです。さらに何かそういう時間を与えて、議論をしてほしいなというのが率直な希望でございます。

公述人・小林 和紀・川崎市立川崎高等学校教諭
 私自身も本当に、いま、お話があったように、ほんのわずかながらの勉強でしかないので分からないと思うのです。日本国教育基本法案のところの17条のインターネット等の部分のところで、そういった限界、問題、人間関係構築とあるのですけれども、やはり人間と人間は目と目を合って、向き合って、そして、いろんな話をしていく、時には悩みがあったり、誤解があったり、ぶつかり合いながら、また、同じかまの飯を食う等ありますけれども、そんなかかわりをするなかでの人間関係の構築のところが私自身はもう少し光を当てていただく。そのなかで、仮想情報空間のコミュニケーションというのは、その後に、また情報伝達というところの部分の、思いの部分よりも記録の部分で生かすべきものであるかなと思っております。
 あともう一つ、様ざまな内容のところの項目で自主的な運営というところに非常に光が当たっているかなと思うんですけれども、私自身、様ざまなところに行かせていただくなかで、どうしても自主的な運営のところになるとある程度の形ができてしまう、どうしても低い方に流れてしまうところの部分が、どうしても頭をもたげているなという教員集団があります。そういったところを見て、やはり本当に高い目的のところの部分で切磋琢磨していくところの部分が、もう少し前面に出てくるといいように生かせるのではないかなと思っております。

公述人・喜多 明人・早稲田大学文学部教授
 私、以前、目黒区というところでの子ども条例の審議をさせていただいたことがあるのですけれども、その時にやっぱり家庭教育や親の問題で、いろんな問題のある親に対してきちっと責任感を持ってほしいという意見と、しかし、そんなふうに責任ばっかり追及していたら、もう誰も育てなくなるんじゃないのと。親の問題も、教師の問題も、子どもの問題も共通なんですが、いろんな事件やトラブルあります。その時に、どちら、つまり親の問題点とか教師の問題点、あるいは子どもの問題点、少年事件なんかも含めて、そっちを重視して政策的な文書を作っていくのか、むしろ親や子どもや教師を支えて励ましていくという視点で政策というものが推進されるべきなのかという、これは時代、時代によって問われ方が違うと思うんです。
 例えば、いま、親の問題でいいますと、やはり何か事件があると親が責められるその問題と、1.25という出生率、106万という出産数、そういうもう少子化が止まらないこの現状というのは、僕は非常にかかわりが深いと思っているんですね。つまり、いまの親の問題でいえば、確かに問題も抱えている、そこを支えなきゃいけない、虐待の問題も支えなきゃいけないけれども、しかし支援が必要だと。支援しなければ、やっぱり親が本当に楽しく子育てができない。だから支援というのが非常に重要なキーワードだと僕は思っています、この時代だからこそ。それは教師にも言えるし、子どもにも言えるのですね。
 さっき、私は自己肯定感が、いま落下現象だと言いました。やっぱり子どもたちというのが、いま本当に大人の側から見れば責められ続けていて問題だと。いじめの問題も含めてですけれども、子どもは常に大人の側から見れば厄介者扱いされるような、そういう見方をされていくことによって子どもたちが自信を失っていく。いろんな問題を抱えていくというのは、そこにやっぱり子どもを支援していくということが、いま、政策の基本にならなきゃいけないんじゃないか。
 僕は、学校も教師も同じだと思います。学校に限界があるのは当然なんで、その限界があるからこそ、地域や自治体、国がむしろ学校を支えていく、支援していくという視点で政策というものをやっぱり立てていただきたい。
 法案の個別の問題はここでは時間がございませんけれども、全体の法案についての基本的な立脚点というものを申し上げました。

公述人・黒沢・山梨学院大学法学部教授、山梨学院生涯学習センター長
 さっき申し上げたのは、私の個人的じゃなくて、授業でそういう話が出たんです。教育基本法について学生に聞いたら、何が関心あるかと言ったら、先生、そんなのあんまり関心ありませんよ、私が出ているフリーターの話、そっちの方が、私よっぽど関心があって、それでさっき冒頭に申し上げました、正社員になりたいのだけれども全然なれない、こっちの方が、先生よっぽど問題があると言う。昨日の授業でも3人からそういう質問がありました。
 それから、じゃ、教育基本法について何かイメージないかと言ったら、さっき、私が何か勝手にイデオロギーで言っているのじゃなくて、愛国心が問題なのでしょうと、でもそんなのはもう何10年も昔の話でしょうということで、それで急遽、先生方に差し上げたレジュメで、アレンジして作ったんですね。それだけちょっと申し上げたいと思います。

水岡 俊一・議員
 黒沢さんに重ねてお伺いをしたいのでありますが、この政府案の教育基本法については、政府側の答弁としては、これからの日本の教育の姿をここに表していると、こういう見解なんですね。
 ところが、私たちは果たしてそうだろうかという思いを持って審議をしているわけですが、例えば後期中等教育についてこの教育基本法案はほとんど述べていません。それから、高等教育は、これは国の態度として無償化を求めていくんだということは、これは絶対あるべきだと思うのですが、そういったことについても書いていないというようなことを私自身も思うんです。黒沢先生としてはそういった点についてはどういうふうにお感じになっているか、お聞かせをいただきたいと思います。

公述人・黒沢・山梨学院大学法学部教授、山梨学院生涯学習センター長
 私もそういう印象を持っております。高等教育だけが何かバランスを欠いて出ておりまして、むしろ後期中等教育の中学校と高等教育の接続の問題とか、ここら辺に大きな問題を、私、10年ぐらい調査して感じておるのですが、そこについてはほとんど書かれておりません。その辺の問題についてどういうふうに認識されておるのか、こういう点についてはどうなんだろうかと。例えば全入の問題とか、これは一貫して私なんか、この前、衆議院の文部科学委員会でも参考人として申し上げましたけれども、そういう点についてどういうふうに書かれておられるのか。
 ここからはちょっと私の私見になりますけれども、グローバリゼーションのなかで、急遽、国の形を前進させて出すために高等教育に重点を置いて、そういう面が非常に強く出された教育基本法改正になっているんじゃないかというふうな印象を受けたものですから、先ほどのような私の意見になっておるわけでございます。その辺、ちょっと私見が強かったかな、という反省をしておるんですが。

水岡 俊一・議員
 それでは、喜多先生にお伺いをしたいのでありますが、やはり教育基本法という法律においては日本における教育の条件整備をしっかりとしていくことを明記して、国のスタンスをはっきりさせるべきだと私は考えているのです。そういった意味では、先生は、これまで子どもの安全であるとかについても、いろいろとお考えを述べていらっしゃるので、この子どもの安全、子どもを学校というなかでどうやって守っていくのかということについて教育基本法に書かなくていいのか、あるいはどういうふうな記述がいいのかということに関して、現時点で何かお考えがあればお聞かせをいただきたいんです。

公述人・喜多・早稲田大学文学部教授
 民主党の方では、教基法に関した法案と、もう一つ条件整備の学校環境の整備法で安全についてもうたっていらっしゃいまして、そういう意味で、私は先ほど申し上げたように、いま学校をただ批判するだけでは何も解決しないので、やっぱり限界があるなら、その限界を踏まえながら支えていくという支援法的なものの枠組みとして、行政が条件整備を中心とした法体系を持っていただくということは非常に重要な意味を持っていると思います。
 特に安全に係っては、大阪府の寝屋川の事件が象徴的でございますが、文科省が出している危機管理マニュアルに沿って一生懸命現場が努力した結果、先生が亡くなったり、重傷を負うという、教職員も命を落とすという時代になったわけですね。そのなかで求められているのは何かといったら、安全については、やっぱりこれは行政も痛みを分かち合うという姿勢が必要だと思うのです。
 行政が痛みを分かち合うとは何かといったら、金を出すということです。これは人件費です。ですから、僕は、われわれ学会では学校安全法の法案を出させていただきましたけれども、中心はやっぱり安全についての専任職を学校はもう置くべきだと。いまの現行の教職員ではもうとても手に負えない、命を懸けてやっているわけですから。第2の寝屋川、第3の寝屋川を出さないためにどうするか。そのためには行政も痛みを分かち合う、そのための安全職員を含めた学校の条件整備というものをやはりきちっとお願いしたいというふうに考えているわけでございます。
 いま、ボランティアで保護者や住民がパトロールしておりますが、安全はボランティアでは済まないと思います。防犯とか安全というのをボランティアに頼っていてはいけないと思います。それは、第2の寝屋川が、保護者になったり、第2の寝屋川が、住民になる可能性は高いわけでございますので、やはり防犯は、安全というのは、行政がきちっと制度的な保障、財政的な担保を持っていないと解決しない問題ではないかと。そういう意味で、その条件整備を中心とした学校や教育の支援というのは非常に重要だというふうに考えております。

水岡 俊一・議員
 喜多さんにもう一度お伺いします。
 先ほどのお話のなかで、子どもの声がこの審議にも生かされていないというお話がありました。学校という社会のなかで、子どもの意見を生かしていくということを第1に考えるとすれば、どんな方法があるかということになると思うのですね。例えば、民主党は学校理事会というものを民主党案の第18条に掲げておりますが、そのなかに子どもの声を聞くという形はまだ入れられていないという意味では不十分だというふうに思いますが、先生としては、どういった形でこの教育基本法のなかにそのことを盛り込むことができるのか、その点については何かお考えがありますでしょうか。

公述人・喜多・早稲田大学文学部教授
 教育基本法案の、私の前提は、私の意見は、一般論として教育基本法の改正というのはあり得ると思っております。例えば子どもの権利条約を批准している日本の立場として、子どもの権利の視点から教育基本法というものを見直すということはあり得ると思います。
 ただし、今回の改正案の問題については、私は少なくともプロセスが、まだ十分とは言えないのではないかと。本当に国民の支持が得られるような教育基本法の改正になっていないのではないかと。たとえ中身が良くても、プロセスが悪けりゃ駄目なんですね。やっぱりプロセスというものはきちっとしているのが民主主義の社会、民主主義のルールなので、そういう意味では、残念ながら今回の改正問題は必ずしも国民が納得できるような改正手続であったというふうには私はちょっと感じてないものですから、そこは、一つ言っておきたいんです。
 一般的に改正はあり得るというレベルで言えば、やっぱり子どもたちの参加というものが、僕は教育理念の一つの重要な柱になってほしいと思っております。
 それで、単純に運営面だけに子ども参加を要請しても、いまの子どもは出てきません。これはもう自治体でもどこでもそうですが、先ほど申し上げたように、自己肯定感の低下、そして、面倒くさい派がもう多数派になっている、いまの子どもや若者世代は、残念ながら社会参加に対しては非常に否定的です。
 ですから、先ほど申し上げたように、子どもたちが参加をしていけるような支え、支援が必要でございます。そういう教育、教師の役割としても、いわゆる指導という枠を超えて、支援という、子どもたち自身が考えを持ち、行動し、結果にも責任を負っていけるような、そういう子どもたちの活動を支援していくという理念が教育のなかにもう一歩、もう一つ含めていくような方向が望ましいのではないかと。
 つまり、制度としての参加だけでは形骸化する。やっぱりそれを支えていく支援という理念をぜひ盛り込むことが重要かなと思っております。

水岡 俊一・議員
 ありがとうございました。

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