 |
 |
| ■ |
神戸事務所
〒650-0004
神戸市中央区中山手通3-4-8
大東ビル8階
TEL:078-334-2355 FAX:078-334-2655
|
|
■ |
東京事務所
〒100-8962
東京都千代田区永田町2-1-1
参議院議員会館502号室
TEL:03-3508-8502 FAX:03-3591-0510
|
|
|
|
|
|
|
|
 |
|
|
| 2006年12月4日 第165回国会 教育基本法に関する特別委員会 |
政府案「教育基本法案」、民主党案「日本国教育基本法案」等
公述人
太田 勝之 兵庫県立高等学校PTA連合会副会長
桂 正孝 宝塚造形芸術大学教授
森本 光展 大阪府立箕面東高等学校教諭
土屋 基規 近畿大学教授、神戸大学名誉教授
|
|
より厳しく国民の教育を指導すべく、
どんどん徳目が増えていくのではとの不安を持つ
|
兵庫県立高等学校PTA連合会副会長 太田 勝之
公述人・太田 勝之・兵庫県立高等学校PTA連合会副会長
まず、私は、この公聴会というものをよく理解もいたしませず安易にお引き受けをいたしまして、場違いにこの場に出てまいりましたことをおわび申し上げます。
私は、決して教育関係者でも学識経験者でもございません。淡路島に住まいをいたしておりまして、地域の子どもたちの少数化と、自営業でございまして、いささかお勤めのお父さん、お母さん方よりも時間が自由になるということから、子どもたちがお世話になっております学校のお手伝いを始めたことがその後、巡り合わせといいますか、PTAの県単位の組織にかかわるようになっただけのものでございまして、そういう意味から、大変平均的な国民と申しますか、一般的な庶民としての教育基本法問題への感想を申し述べるものであります。
この教育基本法の改定につきましては、テレビニュースと新聞の報道でしか知識はございません。この公聴会に出席するに際しまして、初めて現行基本法と改定基本法の全文に目を通したような次第であります。
マスコミで取り上げられております主な問題箇所は、教育の目標にあります「わが国と郷土を愛するとともに、」という表現が、愛国心を国が教育によって国民に求めているかに連想されるということかと理解をしております。
私自身は、愛国心とは、自分が生まれて成長するなかで人として自然に心のうちに育っていったふるさとの山河や家族や周囲の人びとへの親しみ、自身が美しいと思ったふるさとの風景がこれから先も変わらずにあってほしいというふうな、また子どもたちにも同様に感じてほしいというふうな、故郷に対する愛情がその大本ではないかというふうに思っております。
私の両親は戦争世代の人間でございまして、戦前の教育を受けております。父は戦地にも行っておりますが、その父と話しておりましても、国に対します思いというのはないわけではございませんが、その気持ちを突き詰めて考えますと、やはり父自身が育った郷里や家族、親しい人びとを守りたいというふうな、誠に単純で、それがゆえに純粋でもあるようなそういう思いではなかったかというふうなことでした。その気持ちが大きく広がったものが愛国心というふうに理解されるもので、あくまで、繰り返しますが、成長するなかで自然に心に芽生えてくる感情であって、決して、これが愛国心というものだから一緒に育てていきましょうというふうな事項ではないように思います。
近年になるにつれまして、学校や教育現場におきまして悲惨な事件や、子どもの虐待、子殺し、親殺しといった残虐な事件が多く発生しております。それら様ざまな事象、事件に対応するためでしょうか、改定基本法はかなり細かく国民への教育の方針を規定されているように感じます。私などは、本当に現行教育基本法の運用でそれら問題に対応できないものだろうかと、もう少し言いますと、現行教育基本法は正しく運用されてきたものであろうかとの思いを持つわけであります。
改定教育基本法が参議院を通過されまして施行されますと、この後この事態が改善されなかった場合、いつか、より厳しく国民の教育を指導すべく、どんどんその徳目が増えていくのではとの不安を少しく持つわけであります。
次に、各校のPTAの役員と話しております時に最近よく話題に出ますことは、われわれの学校生活で楽しかった思い出であります、そのまた大きな部分を占めている文化祭というものがこの数年学校行事としてどんどん縮小されたり、またあるいはなくなってしまったりしていることがございます。
生徒たちが研究発表や演劇などの文化祭に向けましての準備のなかでクラスの団結を深めていく、これは一つの一大イベントであったように思います。そのイベントが縮小されていく理由の一つは、2002年から採用されております週5日制と、新しい教育課程が始まったことでの総合的な学習や選択教科が増えたために他の教科の授業時間が少なくなったことから、その授業時間を確保するためにこれらの行事をなくす方向に進んでいるのではないかと思います。
つい最近も、高等学校の必修科目の未履修問題が大きな問題となりましたが、これは一つには、私ども親たちが受験に向けての必要な科目のみの授業を学校に求めていったというふうな側面もあろうかとは思いますけれども、授業時間の少なくなっていったことがやはり文化祭等の行事がなくなっていく、その大きな理由ではないかと考えます。
ゆとり教育ということをうたいまして、逆に窮屈な教育となってしまっている現状から考えましても、制度や、ましてその基本となります法律の改定には真剣に、またよりご慎重であっていただきたいというふうに思うわけです。申し上げるまでもなく、最もその影響を受けますのは子どもたち、生徒たちであるわけでございます。
現行の教育基本法が制定されまして半世紀以上、59年ですか、の時間がたつそうでございます。しかし、制定以来長い時間がたったから現行教育基本法が、その文言が現状に合わないということではなくして、その法の精神といいますか、心を生かすべく、いま一段お進め、お努めいただくべきことがあるんではないかというふうにも思います。
よく教育は国家百年の大計という言葉で言われます。改定基本法には100時間を超える審議を尽くしたと新聞で読みましたが、私は、国家百年の大計を審議されるにはまだまだその時間は少ないように思われます。国会議員の先生方も教育基本法のことを重要法案というふうにお考えをいただいておられますからこそ、お忙しいなかこのように公聴会をお開きいただいているんだと思いますので、政府や文部科学省の皆さんは、これまで以上に国民大衆が憲法の次に大切な法律を審議されていることを理解し、皆がこの問題を考えるようにメディア等を通じて宣伝といいますか、アピールをしていただきたいというふうに思うわけであります。
大変的外れなことばかりを申し上げたように思うわけでございますが、一般の国民といいますか、親の理解というのは多分この私、程度のものではないかというふうに考えます。繰り返し言い訳めいたことを申し上げますが、私は決して教育の専門家ではございませんので、ひとつ難しいご質問等につきましてはこの後お話しになられます先生方によろしくお願いをいたしまして、私にちょうだいをいたしました時間を終えたいと思います。大変失礼をいたしました。
|
教育基本法改正は、公教育制度の根本にかかわる改定
論点を十分に掘り下げ、国民的なコンセンサスづくりが大事
|
宝塚造形芸術大学教授 桂 正孝
公述人・桂 正孝・宝塚造形芸術大学教授
私は今年もう69歳になるのでありますけれども、教職歴40年やってまいりました。そして、主に学校教育学の方法等について研究をしてきたわけでありますが、研究のかたわらでございますけれども、兵庫県や神戸市あるいは大阪府・市等、この教育現場あるいは学校の教育の行政、そういうものの末端でお仕事をさせていただいております。そういう立場から今日何をお話ししたらいいかと、この短い時間ではありましたけれども、考えさせていただきました。そこで、私自身はそういう自分の経験と自分の研究の関心から、現場に近いところから発言をするべきではないか、こんなふうに考えたわけでございます。
そうなりますと、私、この10年余り、10年余になりますけれども、二つ大きな体験がございまして、そこの話をすれば兵庫県の実情を少しでも理解していただけるのではないか、こんなふうに考えたわけでございます。その二つの原体験と私は申し上げているのですけれども、それが阪神・淡路大震災という経験でございました。私は神戸の灘区で被災をいたしました。もう一つは、その2年後に起こりました神戸小学生の連続殺傷事件という大変痛ましい事件に遭遇いたしました。このことにどう対応するかということは私どもにとって大変大きな課題でございました。そのことを受けて、いま、文部科学省等でもご評価いただいておりますけれども、トライやる・ウイークという取組をしております。そういうことを一つ前段にお話をいたしまして、現行の教育基本法改正問題についての私の思いと申しましょうか、意見を述べさせていただきたい、こんなふうに考えております。
阪神・淡路大震災は、もうご承知のことでございますので、詳細には申し上げる時間もございませんけれども、私は非常に先生方にお話ししたいのは、あの苦境のなかで、国として大変いろんな援助をしてくださったことに対しては非常に感謝をしているということであります。これはひょっとしたら愛国心かと思いますね。本当に感謝しております。
それは何かと申しますと、あの時に役所もすべて崩壊してしまいました。何もなくなったわけです。たまたま先生方は、職場でありますから学校に駆けつけますと、もうすでに避難民が入っていらっしゃる。そして、その避難民の6割、18万2000人と言われますけれども、学校にもう入っておりました。5時46分でございますから、もうカギを壊して避難所でない学校にもあふれているような状況であったとお聞きします。その避難所となった学校でお世話したのが現職の現場の先生方でした。何の命令も何の指示も何もなかったのですけれども、取りあえず、ご自分の家が被災をして全壊した先生方も、もう来た限りは帰られなくなってしまいました。
しかし、私は、そのことだけではありませんけれども、大きな暴動だとかなんとかというふうなことがなかったことを誇りにしております。その学校の先生方の本当に獅子奮迅(ししふんじん)の活動というものを私、見まして、改めて日本の先生方というのは大変なものだなと実は見直したわけでございます。日本の学校文化は中心だといいますけれども、それだけの心は生きていたなと思いました。
そして、新しいことにたくさん遭遇しまして、それまでの安全指導というふうなものだけであったこの安全教育というものを、新たな防災教育をつくるところにまいりました。そのなかで、この議論のなかに出てまいりますような心の教育でありますとか、あるいは生と死の教育でありますとか、いや応なくぶつかりました。子どもたちを支え、励まし、肉親を失った子どもたちとともになって頑張りました。それを救ってくださったのが、政府や文部科学省が派遣してくださいました教育復興担当教員の枠でございました。128人、そして多いときには208人というあの力がどれほど現場を支え、子どもを支え、親を支えたかと私は思います。これは国の支援なしにはできなかったことでございます。
あらゆることを現場も行政も一緒になってやりましたけれども、そのことが私は大変頭にございます。現行の教育基本法に照らしてみますと、それはまさに教育行政というのは教育諸条件の確立であると書いてあることの意味がそこにあるのだなと私は了解をしているわけでございます。
もう一つ、この神戸の小学生連続殺傷事件でした。1997年で2年後でありましたけど、ちょうど兵庫県の教育委員会では学校教育審議会をやっておりました。家庭、地域、学校の連携についてというテーマでやっている途中で起こったものですから、大変でございました。本当に私はびっくりしてしまったわけでございます。そして、そこで河合隼雄先生に来ていただきまして、初めてこの防災教育のなかに心の教育ということを芯に据えて考えるようになりました。こうしてスクールカウンセラーの配置をしてくださり、あるいは民間からは専門のボランティアが来てくださり、若者を含めて延べ140万の人たちが助けてくれました。これは本当に相互扶助、お互いに共助するということの一番私は意味があったというふうに了解をしております。
ここで、家庭、学校、地域だけでなしに、専門家、医師、弁護士、様ざまな力をお借りしないと、いまの学校が、あるいは家庭が、子どもが抱えている問題は解決しないということを私は感じたわけでございます。そういうことについての教育の連携については、この政府案のなかにも書かれていることではございます。
そして、そういう二つの大きな経験から目指したのがトライやる・ウイークでありました。トライやる・ウイークは、文部科学省でもすでにそれに類似した事業を全国に打ち出しております。1998年から始まりまして今年が9年目、いま10年の検証作業をやっているところでございます。公立中学校の2年生、1週間、体験的な学習活動を通じまして心の教育の充実、そして生きる力の育成ということ、それはまさにいま壊れている地域の教育力の再生を果たすということが目的でございました。
一番私が驚きましたのは、不登校生の3割以上、4割近い子どもたちが登校してきたということでありました。これはいろんな理由があろうかと思いますけれども、大変大きな取組で、教育改革の意味があるということが分かった次第でございます。
こういう立場から、いまの教育改革への教訓として私は、現行の教育基本法の前文にありますところの憲法の理想の実現は、「根本において教育の力にまつべきもの」ということが納得いくものでございます。たとえ国や行政が取りあえず頓挫しましても、現場の先生方が取りあえず子どもたちのところへ駆けつけ、親や地域と一緒になって教育を守り再生させるという、その努力というのを私は信頼するわけでございます。それを、教育の行政は教育諸条件の整備、確立という形でご支援いただいて、そして兵庫のトライやる・ウイークというものが一定の成功を収めたものと考えているわけであります。
そういう経験から、いまの改正問題、特に、政府案を読まさせていただきましたけれども、いろんな論点があるなと、いろんな検討する課題があるなというふうに私は感じております。それを、少し問題を出してみたいと思います。
一つは、この改正案というものの根本的な性格にかかわることでございます。言ってみれば憲法との関係というのはどんなふうに考えたらいいのか、あるいは新しい法律を作る場合に法案の構成原理はどうなのかということが、私にもまだ十分に納得できない部分がございます。
現行法は、準憲法的性格という形で、いまの現行憲法とのワンセットで成っているように理解しております。これはちょうど明治憲法と教育勅語のような関係に多少似ていると思っております。この政府案を決めました時には、現状をかんがみて付加条項というものが、私の数え方では六つぐらい、あるいは障がい児教育に触れておりますので七つと言えるかもしれませんが、つけ加えられております。これと、学校教育法以下の現行のいろんな下位の法律がございます。その法律との関係、そういうことを整理する必要があろうかというふうに考えるわけであります。
なお、六つのなかで、例えば生涯教育からいろいろ幼児期の教育まで挙げられているんですけど、少し斜めから見ますと、じゃ高等学校とか、そういう専門学校等の位置づけはどうなのかと、そういうふうなことも気になるわけでございます。
二つ目は、この新しい時代の教育課題に対応しようという改革であろうかと存じます。しかし、新しい時代をどんなふうにとらえるか、これはいろんなとらえ方があろうかと思います。文部科学省や地方教育行政との対応の関係、そういうふうないろんなことを考えて出されていると私は承知します。しかし、例えばグローバリゼーション、いま大きな課題ですが、そのグローバリゼーションの時代に、例えばもう200万人を超える外国籍の方が住まわれ、日本人も、日本国籍を持つ者が海外で100万人を超えて暮らしており、定住して働いております。そういうことを考えますと、多文化共生の教育というようなものをどうするのか、こういうことはすでに大きな課題であろうかと思います。
兵庫県では、すでに芦屋国際中等教育学校という6年制の学校をつくりまして、それを拠点校にいたしまして多文化共生の教育、海外からの帰国子女、あるいは外国人の子弟たち、日本の子どもたちも含めまして教育を始めております。こういう対応をすでにしておるわけでございます。
そして、三つ目には、現行の教育基本法あるいは憲法は、一番大きな特色が基本的人権にあろうかと思いますが、教育を受けることも基本的人権としてとらえられております。これは、現行の憲法が近代立憲主義の立場に立つということから来ているのかと存じます。
この政府案は、先ほど太田委員もおっしゃられましたけれども、国が必要とする資質を備えた国民の育成ということを力点に置いてございます。現行法では、個人の人格の完成という個人の尊重、あるいは個人の尊厳というふうなことに基点を置いた教育を受ける権利を想定しております。この辺のことをどのようなところで落ち着けるのかということは、なかなか微妙な問題ではなかろうかと、思います。
また、4点目には、愛国心。先ほど出ましたけれども、愛国心の規定につきましても、非常に愛国心というものが多様でございます。そうしますと、憲法19条にありますような思想、良心の自由との関係について、どんなふうに折り合いをつけるのかというのは、やはりなかなか微妙な問題で、検討しなきゃならない問題かと思います。
愛国心というのは多様性を持っていると思います。しかし、日本はいわゆるキリスト教の一神教ではございませんで、多神教でございますので、多様な形での愛国心の存在があろうかと思います。戦前では教育勅語というものがございまして、天皇主権で勅令主義でございました。これは私も原本の写しを見たのですけれども、当時の総理大臣等は副署をしないで、国会を通さない形でもって勅令として下しおかれたものでございました。ですから、睦仁というお名前だけが書かれておりました。これはその当時の専門家の分析によりますと、国会というものが国民の内心に入ってはいけないという、当時の西欧の考え方に配慮したものというふうに言われております。
そのほか、宗教についても大変微妙な問題でございます。信教の自由、政教分離という憲法20条のものと、この宗教教育のあり方、つまり根本で申しますと、宗派によらない宗教教育はどういうふうな形で可能なのか、こういうことについてのきわめが必要かと存じます。
最後に、結論といたしまして、やはりいまの公教育制度の根本にかかわる改定になるかと思います。論点を十分に掘り下げていただきまして、国民的なコンセンサスづくりがとても大事だと思います。震災で一番難しかったのは、地域のコンセンサスづくりが、まちづくりで一番困難でありました。いまだになかなか解決しません。そういう意味では、教育の問題はすべての国民にかかわりますので、ぜひ、人権としての学習権の保障というものが憲法25条にもありますように、社会保障の一環でございますので、ぜひ子どもや親や保護者、そして教育現場の教職員を支え励ますような形でご審議をいただければ大変幸いに存じます。
|
グローバリズムの視点の欠落は、教育基本法の性格として問題
教育の目標に、あるべき世界市民、地球市民の人間像の反映が必要
|
大阪府立箕面東高等学校教諭 森本 光展
公述人・森本 光展・大阪府立箕面東高等学校教諭
私は、1983年に大阪府で高校の教員として採用されて以来20数年間、学校教育の現場で教育実践をしてまいりました。教育行政や教育法の専門家ではございませんが、教育の現場から発言をさせてもらおうと思います。
全日制普通科で学力困難校と呼ばれているところも経験いたしましたし、難関国立大学に多数合格する伝統進学校も経験いたしました。現在は、多部制単位制高校という昼間の定時制の高校に勤務しております。前任の伝統進学校でも様ざまな改革を経験してまいりましたけれども、現在の多部制単位制高校は、再チャレンジの意味を込めた定時制高校の抜本的な改革として大阪府によってつくられた学校で、私の教員生活の歴史そのものが一連の教育改革の現場を象徴しているものと言えます。
特に、現在の私の勤務校について述べますと、大阪府によれば、定時制に入学してくる生徒の約6割が全日制高校を受験しており、全日制に入学できなかった等の理由で定時制に入学してくることが多いというところから、定時制のシステムを利用して、昼間の定時制の学校として昼間での受入れ枠を拡大し、それまで夜間定時制にしか行けなかった生徒の昼間の受皿としてつくられたのが私の勤務校というわけであります。
また、私は、授業や学級担任をしているかたわら、教員生活の20数年のほとんどを学校教育相談の実践に努めてまいりました。言わば教員カウンセラーとして、不登校その他様ざまな心の問題を抱えたり、傷ついた子どもたちや、その親たちに寄り添ってまいりました。
本日は、改革の現場と教育相談の現場の二つを基に、私なりに教育基本法改正について感じていることを述べさせていただきます。
まず、時代状況の認識についてであります。
教育基本法提案理由の説明では、私には状況認識が焦点化されていないように思えてなりません。私が現場で感じる現状の課題の根本というのは、子どもが変わったということであります。学校や教師の指導力あるいは教育力というものは、子どもの側の、学校に行こう、学ぼう、自己を高めよう、教師、学校に従おうという姿勢と意欲に支えられ、その姿勢と意欲に呼応して発揮されるものであります。
ところが、現代の子どもたちは、そういった姿勢と意欲に乏しく、傷つきやすい割には、自分を鍛えたり周りに適応したりするというよりも自分中心に考えるのであります。言い換えれば、学びの主体というよりもサービスを享受する主体であり、提供されたサービスを選択する主体であるように変わってきました。
学校や教師が、魅力ある学校にしようと努力したり、学ぶ意欲を引き出そうと努力しても、自分に合わなければ折り合いをつける努力もせずに自分の好き嫌いを優先してしまい、学校や教師の努力を意に介さないという子どもたちが多くなってきたのです。学校が集団の場である以上、すべての生徒に気に入ってもらえる魅力ある場になるのは困難であり、子どもたちが大きく変化しているにもかかわらず、学校や教師は従来型の教育方法で子どもたちと向き合わざるを得なくなっていると言わざるを得ません。
高校の進学校における未履修問題は、学びの主体が後退して、受験に有利というサービスを享受する主体に変わった子どもたちに対して学校側が対応したものにすぎません。大都市で未履修問題が少ないのも、予備校が現役生を相手に公立高校を補っているからにすぎません。私が勤務する昼間の定時制の学校などは、従来型の心因性の不登校生徒以外に、朝に起きれない、決まった時間に登校できない、学校に来る意味を感じられない、髪の毛や遅刻で怒られるから学校は嫌だ、1日6時間の授業が耐えられないなどの理由で学校を欠席する生徒が多数おります。私の経験からして、学びの主体からサービスを享受する主体への変化、そして、その主体というのも自立した個人ではなく、ひ弱で孤立した個人となっているというのは、いまの子どもたちに、進学校や困難校を問わず共通する状況であろうと思わざるを得ません。
では、子どもの変化の原因は、子どもが大人社会の鏡である以上、社会が変化し、それに伴って家庭や親が変化していることに求められると思います。親たちが学校をサービス提供の場と考え、様ざまなクレームを学校に寄せるようになったのも社会や親の変化の一端でありましょう。大阪大学の小野田正利教授などは、親のクレーム自体を研究対象にして、いまの学校の置かれた状況を、学校はごみ箱であり、教職員はサンドバッグと表現しています。
では、社会の変化の根底には何があるのかというと、社会全体の関係性の希薄化であり、断裂化ということであります。簡単に言えば、様ざまな場面で人間と人間の触れ合いや関係がばらばらになってきているということであります。夫婦、家庭がばらばらになりつつあるのは言うまでもなく、オートロックマンションが増え、買物はコンビニで一言も言葉を交わすことなくできますし、地域社会といっても、個人商店は少なくなり、専業主婦も共働きで少なくなると、子どもたちとかかわるのはもう高齢者しかいないという状況が地域にあります。
こうした関係性の解体現象によっていまの子どもたちはばらばらな個人として未熟なまま生きざるを得ないのに、早くから消費者として、子ども向けサービスを享受する主体として好きなものを選ぶように育ってきているということです。
教育行政の教育改革によってもたらされた学校現場を経験して思いますのは、こうした状況認識を踏まえているのだろうかという疑問であります。しかも、肝心の教育改革に一貫性がなく揺れ動いていて腰が据わっていない。例えば、総合的な学習が始まるときには学力低下論争に押されて基礎学力重視にシフトチェンジするとか、条件整備を十分せずに学校システムを変えるとか、こうした状況は教員の事務量を膨大にして、しかも、改革に取り組んだのに、そのやさきから改革の方向が総括もなしに変われば、教員の意欲を失わせてしまうのはやむを得ません。
従来の教育基本法の制定は、民主化、近代社会化を進めていく一環として教育勅語に代わって制定されたものであることは言うまでもありません。したがって、いままでの教育基本法が近代社会の人間の理想像と教育理念を根本としていまして、時代状況を切り開く根本理念としては、いまや時代にそぐわなくなってきているように思います。ポスト近代にふさわしい理念を打ち立てて、現状の状況を打破できるきっかけになるとしたら、教育基本法改正も悪くないというのが私の見解であります。
そこで、今回提案されている教育基本法案を拝見させていただきますと、人間観におきまして、教育基本法の近代社会的人間観に対して、国家、公共、共同体を重視する復古的な人間観が入り混じった異なった人間観のモザイク状にちりばめられた文章になっているという印象を受けます。高度消費資本主義社会が様ざまなひずみを生んで、関係性の解体、ばらばらになるというような状況をもたらしたからといって、復古的に国家重視、公共重視の人間観で時代状況を切り開けるとは私には思えません。
特に、議論のある教育基本法第1章第2条第5項の、伝統と文化、国云々ということについて私見を述べさせていただきますと、まず第1に、伝統と文化を尊重ということですが、伝統芸能を学ぶということにしましても、伝統芸能がその時代の生きた娯楽であった時代にはその時代の大衆感覚に合っていたわけですが、大衆芸能としては死んでしまったものまでも現代の子どもたちに尊重させるのは大変に無理があります。そして、一方で、農業政策によって農村の伝統社会の解体を促進したり、市場原理のグローバルな進展によって地域社会の様ざまな伝統が壊れるのを放置しておいて、教育にだけ伝統と文化の尊重というのは現実には実現が困難ではないでしょうか。
第2に、わが国と郷土を愛するということについて、国家主義的なナショナリズムではなく、郷土といった意味合いの強いパトリオティズムと言われていますけれども、例えば、特攻隊の若者たちが死んでいったのは、決して東条英機の体制や当時の日本政府を守るためではなく、故郷や母親に思いをはせて、国イコール郷土を愛しながらでありました。つまり、国が政府イコール統治機構を意味しないからといって、国家を守るために死んでいくことイコール郷土を守るために死んでいくことという飛躍につながることに対しては歯止めにならないのではないかという懸念があります。したがって、人間の自然な感情である郷土愛あるいは国土愛を利用したナショナリズムに陥らない工夫が要ると思います。その意味で、わが国と郷土を愛するという文言だけではその危険性に陥るので、他国を尊重という文言を入れたのであろうと私には思えます。
第3に、在日外国人の人たちが肩身の狭い思いをすることのないような観点と表現がこのわが国と郷土には必要ではないかと思います。あるいは、これからの日本は、少子化に伴って移民や外国人労働者を受け入れざるを得なくなるでしょうから、生まれや育ちは別の国の人やあるいは別の郷土を持つ人たちも受け入れられるような教育目標が大切ではないかと思います。現実に、いまや生徒たちのなかに日本国籍でない人、あるいは日本国籍を持っていてもルーツを日本以外に持っている人が多くいるのに、わが国を愛するとか、まして日本を愛するという表現では、現場で混乱を生みかねません。愛国心の強調が、学校現場でそういった外国籍生徒へのいじめや差別につながりかねないことを心配するものであります。教育行政に内外人平等の視点がぜひ欲しいと思います。
この改正案で、特に大阪の教育の現場が進めてきた多文化共生教育がやりにくくなるのではないかと懸念しております。私の前任校の大阪府立天王寺高等学校では、校区内にコリアンタウンを抱えていることもあって毎年1割以上の在日コリアンの生徒がいますけれども、卒業式で国歌を歌い国旗を掲揚するなら在籍している生徒のすべての国歌、大韓民国や北朝鮮の国歌を歌うべきではないかという意見が生徒の方から毎年のように出ているわけであります。私は、多文化共生の観点から、国立の学校以外は学校での式典は校旗掲揚と校歌斉唱がふさわしいと思っている人間ですが、様ざまな思想信条の教師の思いを踏みにじることのないように要望いたします。
次に、公共の精神や規律の重視の方向についてですが、前文や第2条第3項に公共の精神とあり、第6条、学校教育において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んじるとあります。おそらく子どもたちの規範意識の希薄な現状からこういった文言が提起されたのでありましょうが、大人社会のモラルの低下や新聞報道に見られる偽装、ごまかしを改める努力もせずに子どもたちだけに規律を取り戻そうとしても、改革の実は上がらないのではないでしょうか。
次に、第6条、学校教育の第2項に、教育を受ける者がとか、あるいは第10条、家庭教育の第1項、父母その他の保護者は云々とか等々、国民の側の務めのような面を規定しておりますが、それは法律になじまないのではないかと思います。法律はあくまでも国及び地方公共団体を規定するもので、まるで徳目のように規定してあっても、果たして改革の意味があるのだろうかと思います。
次に、教育改革という観点からは、義務教育9年という枠を外したのは、思春期が早まってきている現状と高校進学率90%を超える状況のなかで、義務教育の見直しという意味では大いに意味のあることではないでしょうか。
次に、このたびの教育基本法案にはグローバリズムの観点が欠落しています。地球というグローバルな視点からIT化や人と人とのコミュニケーションや文化の普遍化を考えるべきだと思います。環境問題も、日本一国ではなく、グローバルな問題群として考えるべきでしょう。すると、世界市民教育、環境教育、国際人権教育が必要となってきます。今後の50年、100年先を見据えた改正だとすれば、グローバリズムの視点が欠落しているのは基本法の性格としては問題ではないでしょうか。教育の目標のなかに、あるべき世界市民、地球市民の人間像が反映しているとは思えません。
最後に、学校現場の人間としては、第17条の教育振興基本計画には大きく期待しております。国も社会も、教育には何よりもお金を掛けなくてはならないし、最優先で予算を組むことが50年、100年先の国家社会を繁栄させることにつながるという価値観の確立が大切だと思います。学校現場のまじめな教師たちが、膨大な事務量と保護者のクレームと従来の常識が通じなくなった子どもたちへの対応に追われて疲弊(ひへい)しています。教師の誇りとゆとりを取り戻すためにも、学校現場に人と金をつぎ込む最優先の予算措置を願ってやみません。ただし、計画が内容にまで踏み込んで国家が教育現場を統制するというのであれば、さらに現場が苦しむだけであろうと思います。
私は、教育の目的は、子たちたちの幸せ以外にはないと思います。子どもたちが自立して幸せになる力をつけてあげるのが教育者の使命であり喜びだと思います。冒頭、子どもたちが変わったと申し上げましたが、私は、すべての子どもたちが生まれながらに尊厳であり、生きる力を持っていると信じております。ただ、子どもたちが生まれ落ちた社会や環境が子どもたちを変化させているのだと思います。子どもたちの幸せを願って悪戦苦闘している同僚教師たちに励みとエールを送ってもらえるような教育改革論議と基本法の改正であってもらいたいと願って、私の話を終わります。
|
現行法の平和主義、民主主義、平等主義の原理を根本的に変え、
改正案は、教育に対する国家の統制を強める内容が濃厚
|
近畿大学教授、神戸大学名誉教授 土屋 基規
公述人・土屋 基規・近畿大学教授、神戸大学名誉教授
私は、31年間神戸大学に勤務いたしまして、この3月、定年退職いたしました。この間、教育の制度、行政、教育法、これを中心にして勉強をしてきたものでありまして、今回の教育基本法の改正問題につきましては、これまでの研究を世に問うべく、この6月に「輝け 教育基本法 教育基本法 『改正』 と日本の教育」という簡単なブックレットを発行させていただいております。
今回のこの改正案の審議に当たりまして、現行法を全面的に改正するということになっているわけですが、その理由や必要性、これが納得いくように説明されていないと思います。私は、現行の教育基本法に示されております理念と原則、これをこれからの教育にも十分に生かし、それを創造的に発展させることが必要だというふうに考えておりますので、改正案に反対の立場から意見を表明さしていただきます。
まず、改正案は、ご承知のように、政府・与党の検討委員会、協議会においてまとめられまして、それを受けて文部科学省によって法案が作成され、国会に提出されたわけですが、今回の改正論議は、教育の内在的な理由によって改正をするというものではなくて、与党の検討会、協議会での論議を重ねてきたわけですが、その経緯が大変不明でありまして、全面改正の理由が分かりません。
一つだけ例を挙げさしていただきますと、与党の中間報告では、現行の第10条教育行政について、「教育行政は、不当な支配に服することなく、」としておりましたが、最終報告になりますと「教育は、不当な支配に服することなく、」というふうに、現行法の表現になりました。この変化はどのような議論によってそうなったのかということが、議事録が公開されていませんので分かりません。こういうことで改正に踏み切りますと、これは後世の歴史的検証ができないという事態になるのではないかと思います。
なぜそういうことを申すかと申しますと、ちなみに現行の教育基本法が制定された時には、内閣全体の直属の審議会として1946年8月に設置されました教育刷新委員会、これが教育改革の推進に当たりました。現在の日本国憲法の制定を論議しました第90回帝国議会、ここで当時の田中耕太郎文部大臣は、憲法における教育についての条項はごく簡単にとどめ、むしろ教育根本法というべきものを制定すべきだという答弁をいたしました。このこととの関係もありまして、教育刷新委員会は発足してすぐに、教育の基本理念と教育基本法について自主的に審議を開始いたしました。そして、文部省の大臣官房室と連携しながら参考案をまとめたわけであります。
そして、それを基に文部省が1947年1月から教育基本法案を作成して国会に提出したわけですが、その教育刷新委員会の議論、これは現在では、岩波書店から教育刷新委員会・審議会会議録全13巻という、このくらいになりますけれども、これが公刊されております。したがって、ここで、総会を始め教育基本法の参考案を作りました第1特別委員会の議事録が全部公開されておりますので、それに参加した各委員の発言の内容とか委員会の議論の経緯、これがよく分かります。教育基本法はなぜ制定されたのかということなどに関しては、これは大変重要な歴史的な史料となっております。そこを見ますと、戦後日本の復興と教育改革に懸けた当時の委員たちの熱意というものがよく伝わってまいります。
こういう歴史的経緯を知るがゆえに、今回の改正論議の経緯というものについては、なぜ全面改正しなくてはならないのかということについての説得ある理由の提示というものが私は欠けていると思います。
次に、今回の改正法案を見ますと、教育基本法の改正案ということなのですけれども、いま申しましたように現行法の全面的な改定案になっておりますので、これをむしろ新しい教育基本法の制定というふうにとらえるべきものでありまして、その性格を一言で言うならば、現行法が大事にしております平和主義、民主主義、平等主義、こういう原理を根本的に変えて、教育に対する国家の統制を強めるという内容が濃厚であります。
そこで、私は、次の三つの理由から改正案の問題点を指摘し、これに反対する理由を述べさせていただきます。
その一つは、すでに出ておりますけれども、国家による教育目標が法律で定められ、その目標に挙げられた20ほどの徳目について学校が組織的、系統的な教育を行い、その達成度を評価されるという仕組みになります。
現行の教育基本法には二つの側面がございます。
その一つは訓示的な側面であります。これは教育の理念とか教育の方針というふうなものでありまして、必ずしもその達成度を客観的に評価されるような側面ではございません。
もう一つの側面は規範的な側面でありまして、先ほども出ましたように、義務教育は9年間とすると、あるいは教育行政は教育の目的を達成する教育の諸条件の整備確立をするという、これはある意味で法律として強制力を持っている側面であります。
ところが、今回の改定によって法律によって徳目が強制されるということになりますと、これはほかにも多くの人が指摘しておりますように、憲法が保障しております思想、信条の自由、内心の自由、これが侵される現実的なおそれがあるというふうに考えるからであります。
教育という活動は、知識や技術、技能を習得するというだけではありませんで、子どもの内面の価値を形成するという営みを伴っております。そして、それは、子どもたちが多様な価値観とか、あるいは道徳とかそういうものに触れながら学習と発達の過程で自ら選びながら身につけていくという、そういう性質を持つものでありますので、これをほかから強制されるという行き方は、近代的な教育の原則というものから見ますと、これは侵害するということになります。
近代国家の国家と教育の関係というのは、国家が道徳の教師にならない、国家公認の哲学を持たないということを基本としております。それは、戦前、教育勅語が発布されるという時にこの原則を重視したという発言があったことを大変大事な歴史的教訓とすべきだというふうに私は思います。
教育勅語が発布されるのに様ざまな天皇側近の準備がありましたけれども、1890年の6月20日、当時の政府の高官でありました井上毅、後の文部大臣になっておりますが、当時の山県有朋総理あての書簡を出しまして次のように述べております。この勅語は他の普通の政治上の勅語と同じようになってはいけません、今日の立憲政体主義に従えば、君主は臣民の心の自由に干渉しないのですというふうに述べておりました。こういう経緯もありまして、教育勅語は、大臣たちの副署がなくて、天皇の言わばお言葉という形で発布されたわけであります。
現行の教育基本法を制定するに当たりましても、当時の田中耕太郎文部大臣は、教育勅語に代わる教育理念を示す必要がありましたので、最低限のことを法律に書くときに大変抑制的にこれを定めざるを得なかったということをその後に述べているわけであります。
こういうことを考えますと、1999年に国旗・国歌法が制定されましたときに、当時の官房長官等政府の高官は、これによって児童生徒の内心の自由を侵害するつもりはないと明言しておりましたけれども、その後の東京都教育委員会などの卒業式などの措置を見てみますと、今回の改定で法定された徳目は学校教育において強制されないという保証は、私はないのではないかと思います。内心の自由を侵害する行政行為に対しましては、去る9月21日の東京地方裁判所が東京都教育委員会の行政行為が違憲、違法であると判示したことは私どもの記憶に新しいところであります。
二つ目に、教育への国家による関与、介入ということが今回の改正で歯止めなく進行するおそれを感ずるからです。
現行法の第10条、教育行政についての規定ですが、その1項は「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」というふうに定めております。これを受けて第2項は教育行政の条件整備義務というものを定めているわけですが、これは、教育と教育行政を区別しながら、教育の自主性を尊重する教育行政のあり方について定めたものであります。
この規定の起草経過を見てみますと、一番初めは、政治的又は官僚的な支配に服することなくというのが1946年12月21日の教育刷新委員会の教育基本法要綱案でありました。その後、これが不当な政治的又は官僚的支配というふうに1947年1月15日の文部省による教育基本法案になりましたが、さらに改定が加えられまして、現行のように「不当な支配に服することなく、」という簡単な表現に変わりました。
この「不当な支配」というのは教育に侵入してはならない現実的な力による支配のことでありまして、それを及ぼす主体として、政党のほかに官僚、財閥、組合等の国民全体ではない一部の勢力ということが考えられておりましたけれども、これは戦前、教育に大きな力を及ぼしたのは行政そのものだという反省から教育への不当な支配という規定がされたわけでありまして、その際、特に教育内容への関与というものは極力抑制されなければならないということが論議されていたわけであります。
ところが、今回の改正は、この教育の国民全体に対する直接責任性という大事な文言を削除しておりますし、これに代わって、教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであるというふうにしております。これは、法令上の規定があるということを理由にして教育行政が歯止めなく教育内容に介入するということがまかり通るようなことになりかねません。教育の自主性を発揮する上で、教育行政のかかわりというものを制限するということが必要なのであります。
このことは、論議されておりますように、学テ最高裁判決によって承認されているという解釈があるわけですけれども、この最大の重要な特徴は、教育内容に教育行政が関与すべきでないという論と無条件に関与できるという論をいずれも極端な論だというふうに排除して、必要かつ合理的な範囲で教育内容に関与することができるというふうにしたわけですが、それは抑制的でなければならないというふうに判示したところに特徴があるわけであります。
第3に、教育基本法の改正論はこれまで憲法改正論と一体となって主張されてまいりました。今回の改正は、安倍首相の所信表明演説でも明確に示されておりますように、改憲の政治目標と一体のものでありまして、第9条を中心とする改憲への現実的な第1歩だというふうにとらえることができます。その点で、日本国憲法の理念の実現をうたった教育基本法の改正ということは、私は容認できないわけであります。
最後に、この現行の教育基本法に示されております理念や原則、これは教育の現状と大変懸け離れた状態にあるということが問題だと思いますけれども、この理念や原則は生かされ、さらに創造的に発展させるべきというところはたくさんあると思います。個人の価値と人間の尊厳の尊重ということを徹底すること、教育の機会均等と無償教育を拡大するということ、国民全体への直接責任性を具体化する制度的仕組みを実現すること、あるいは、教育の自主性を尊重する教育行政の条件整備義務を更に推進することなど、課題が山積していると思います。
言わば、教育基本法に示されております理念、これは可能性の理念と言うべき性質を持っておりまして、これを生かし、その内容に創造的な発展をさせていくということが大きな課題だと思いますので、私はいまあえてここで全面改正をするという必要がないと思います。慎重な審議を重ねていただいて、是非廃案とするように強く希望するものであります。
水岡 俊一・参議院議員
公述人の皆さま方には、公私ともに大変お忙しいなかをご協力いただきました。私も委員の一人として心からお礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございます。
さて、教育は国家百年の大計というふうに申されます。この教育基本法は日本の教育の根本を定める法律ということになりますから、言い換えますと、教育基本法はという主語にして、教育基本法は国家百年の大計であるとも言えるというふうに思います。
そこで、桂公述人と土屋公述人にぜひお伺いをしたいんでありますが、現行教育基本法は制定後間もなく60年を迎えるということになっております。もし、仮にここで改正が行われるということになりますと、今後、50年あるいは100年、生き続けるという法律になる可能性があります。そういう意味からして、このたびの改正論議は、今後50年あるいは100年を見通したものであるのか、あるいは今後50年、耐えられるものであるのか。そういう疑問を持つことは至極当然なことだと思うのです。国民の間に教育基本法の改正が本当に必要だという願いが強くあるならば、それは改正をされて至極当然だろうというふうに思うわけです。しかし、そのためには十分な審議が必要だということはもう自明の理であります。
そこで、この間の衆議院特別委員会、それから参議院の特別委員会の審議が重ねてこられたわけですが、それが十分なものであるのか。あるいは、こういったことが少なくとも行われないと不十分であろうとか、あるいはこういったことがやっぱり国民の立場からして必要ではないかとか、そういった観点において、それぞれのお立場からご意見がありましたら、一つお述べをいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
公述人・桂 正孝・宝塚造形芸術大学教授
私、先ほどお話ししましたように、教育現場というのは、その都度起こる目の前の子どもの問題に取り組まざるを得ないし、また取り組む仕事でございます。
そうしますと、先ほど二つの例を挙げましたけれども、ああいう大きな大地震が起こったときには前例がないわけです。そして、もうそれぞれが判断して組織として動くのですけれども、大変なんですね。皆さんに私、二つお話ししましたのは、ああいう事件に遭遇したときに何をしたか、そして、どうしたかということを分かってほしかったんです。これは根本法という問題と少し遠いように見えるのですけれども、大いに現場というのを助けてほしいというのが本当の私の気持ちです。国ができることですね。
で、私は、あの時のことを考えますと、本当に先ほど申しましたように、教員の、教師の働き、教職員の働き、大変、それまでの評価を変えてしまいました。ああ、日本の先生というのは、何も自分の仕事がどうか以外は、関係ないんじゃなくて、学校を中心にして子どもや地域社会に根差しているんだな、これが百数十年の日本の近代学校の歴史だなと思いました。そのことの歴史ですね。
私は、何もいまの学校を褒めているんじゃないのです。あの明治の初期、3000万人幾らの人口のなかで学校をつくったとき、2万4000校つくっているんですね、小学校。いまも2万4000校足らずです。あの時代に、私は本当に生まれ変わりたいと思いますよ。どんな情熱で学校をつくったか。それほど情熱持って学校をつくって、近代化に向かったんですね。それはとても難しかったということを思います。
そういうことを考えますと、百年の計ということを考えますときに、本当に学校の先生方だけでなくて、親や子どもが生き生きとするようになるためには、大変な手間も条件も要るということを理解した上で改定していただきたいなと。この議論が十分ではないというので、先ほど幾つかの論点を出さしていただいたんです。
そして、トライやる・ウイークというのも、本当に、この兵庫で考え出したことなんです。そこで、どこが悪い、どこが悪いという、そういう責任ではないんですね。ですから、地域が壊れている、子どもをもう一遍地域で、先ほど出ましたように、地域で子どもが育てられるような条件をもう一遍つくろうと。単に労働体験をさせるのじゃないのです。地域の真剣に働いている親の姿に、子どもを出会わしたいんです。そのことをトライやる・ウイークでやったと。ですから、生き方そのものというものに触れ合わせたい。そのなかで子どもはかなり変わりましたよ。不登校の子どもも出てきたんです。これはまだ十分に分析できていませんが、大変大事なことだと思うのです。
ということは、いまの教育改革、可能なんです。ですから、付加法で、いろんな形で新しい現象を出してくれておりますけど、これ一つひとつ大変大きな問題です。私、これ時間を掛けて、新しい時代と、新しい時代の変化は何かということをもっと討論したいですね。そういうなかで考えないと、小手先でやってもあまり浸透をする仕組みがない。それで私は、取りあえず現行法でいいますと、やっぱり教師を、教職員やらを、地域を信頼していただいて、そして、そこでやっぱり教育の力にまつという部分は大事にしてほしい。そのことをサポートし、またご指導いただくのは有り難いんですね。しかし、当事者を中心の施策が欲しいなと。現場というのはそういうところだと私は思っております。
公述人・土屋 基規・近畿大学教授、神戸大学名誉教授
私は、仕事柄、衆議院の特別委員会の議事録をこの夏休みにすべて読みました。そして、その上で問題を整理しておりますが、今日ここには、申し訳ありませんけれども、その整理したものを提示しておりませんが、主な論点をちょっと簡単に申し上げます。
107時間審議されたということですが、その論点を整理してみますと、私は主に九つぐらい挙げております。ちょっとアトランダムに申しますと、まず第1に、現行法を全面的に変える必要性、これについて議論がございました。第2に、現行憲法との関係、これも議論がございました。第3に、教育基本法が制定された過程についての論議がありました。第4に、教育基本法と教育勅語との関係についての議論がありました。そして、五つ目に、教育の目標を法定するという改定案の第2条ですね、これについての議論がありました。そして、さらに現行法の第10条、教育行政の役割についてのいわゆる不当な支配という問題についての議論がありました。あと、宗教教育についても少し議論があったように思います。
この議論のなかで、それぞれのお立場と考えで論争が行われているわけですけれども、私はこの議論のなかで審議が十分に尽くされていないと思うような問題がまだ幾つかあります。
その一つは、教員の職務が大きく変わるという問題ですね。これなんかについては審議が不十分だと思います。
それから、全体について申しますと、現行法は、わずか11条の短い法律なのですが、それに17条というふうになったとしても、これまでの審議のなかでは逐条審議というものを徹底的に行っているというようなことをうかがい知ることができません。そういう感じを持ちます。いまはインターネットで議事録を落とせますから、こんなに厚いものを、この夏休み、相当な時間を掛けて、私は講演などの必要がありましたので見させていただきました。参議院の方はまだ議事録が全部そろいませんので見ておりませんが、ぜひ逐条審議をやっていただきたい。例えば、前文のところで日本国憲法との関係をどうするかというふうな問題もございます。
それから、いろいろ審議を聞いておりまして感じているのは、大臣、文部科学大臣が替わりましたけれども、前文部科学大臣なども、先ほど来からいろいろ問題になっている、いじめの問題とか非常に難しい問題がございますね。そういう問題について、改正をしたからといってこれが解決するものではないというような趣旨の答弁もございます。
こういう点で見ますと、私、最後にちょっと早口で申しましたが、いま、学校現場や教育をめぐっていろんな問題が山積していることについては、誰もがみんな心配しております。これを法改正という形でいかなければできないものかどうか。例えば、教育振興基本計画を立てるという場合にも、現行法の第11条で、これは十分立法技術上可能なんです。そういう方法を取らないで教育振興基本計画を取るというのは、現在の行政の様ざまな基本法と基本計画という関係があるから、予算措置や、何かでそういうことを考えられているんでしょうけれども、いま挙げました幾つかの論点につきましては、重要な点を幾つか挙げて審議をされていますが、私は逐条審議がきちっとできていないという印象を持っております。
そして、このことを変えることが一体日本の教育の将来にとってどういう意義があるのか。このことによって私は教育と教育の仕組みは構造的に転換すると思っておりますので、相当大きな変化が時間を掛けて起こってくるだろうというふうに思います。その辺をぜひ論議してほしいと思っているところです。
教育勅語もすぐに効果を発揮したわけではなくて次第に、修身科とか学校行事とかというのを通じて最高の基準としての効力が戦前も発揮されていったわけでありますので、これが、いまのような改定が50年、100年もつかということでいえば、それはそこまで見通せているんでしょうかと。現行の教育基本法もできてから59年ですけど、あの敗戦直後、60年先の社会の変化まで見通せてやっていたかということになりますと、それは難しかったと思いますね。そういう点でいえば、社会の変化に応じて改定していくと。例えば、韓国の教育基本法も何回か改正されていますよ。そういう形になるなら、私は教育条件の整備ということに焦点を当てて改正をすると、改正をするならですね、いうような方法もあるのではないかという考えを持っております。
水岡 俊一・議員
時間がなくなりましたので、あとお二方に短くお答えをいただきたいと思うのですが、森本さんと桂さんにお願いをしたいと思います。
いま、お話にも出ておりました教育条件整備という観点からすると、内外人平等の精神が必要ではないかというふうに森本さんおっしゃいました。外国人の子どもたちの教育をどういうふうに保障していくか、いま、グローバル化のなかで、日本は本当に真剣に考えていかなきゃいけない、そういうときに来ているわけですが、そういった観点で、繰り返しになっても結構でございますので、現在、教育基本法の政府案に対してお感じになっていることを若干お述べいただきたいと思います。森本さんと桂さんにお願いします。
公述人・森本 光展・大阪府立箕面東高等学校教諭
内外人平等の観点からということになると、私が思いますのは、現場で子どもたちの問題というのは、自分自身のアイデンティティーを確立できない、自分とは何かということがなかなか自信を持てないというところがあるわけです。
そうしますと、外国人の子弟の場合、日本社会のなかで自分自身のアイデンティティーをどう確立していくか、というところの問題が、随分を問題抱えているといいましょうか、自国を愛するということは、その外国人子弟にとっては一体どういうことなのかと。日本社会のなかで日本文化を身につけながら、でも国籍は違うという、これに対してどう自信をつけていくのかと。そのことについて、言語であるとか、あるいは様ざまな教科の問題であるとかにかなり人を割かないといけないし、また特別な教育も施さない限りハンディキャップを負ってしまうというふうな部分で、随分その条件整備が必要であるというふうに感じております。
公述人・桂・宝塚造形芸術大学教授
私、いま、内外人の話が出ましたけれども、一番大事な問題は、子どもの社会的自立をどのように支援するのか、ということが一番大事な課題だと思っております。それは、日本の子どもであれ、ほかの外国の子どもであれ、同じ問題だと思います。
でも、例えば非常に多い日系ブラジル人と言われる方、たくさんおられます。そのなかで、少年院に入っている率は非常に高い、というふうにブラジルの方がおっしゃいます。ぜひ支援してほしい。非常に難しいですね。労働力として親は入ってきますけれども、どの子ども一人として自分の意思で日本に来た子はいないのですね、どうも聞いていますと。ですから、親の都合で一緒に来たと、そして学校にもなかなか行けない、行かないという形で路頭に迷っている子ども、その子どもが犯罪に巻き込まれている場合が多いのです。
私は、子どもの権利条約というのだけでなしに、日本にいる外国人の子どもたちに対してきちっと学習権を保障する。ただし、ブラジルの場合には10歳の壁というのがございます。10歳後で来ると、割合うまくいくんですけど、10歳より前に来ますと、ブラジルの文化や言語もないし、日本にも適応できない、そしてむちゃくちゃになっていくんですね。
そういうことをしますと、やはりきちっと支援する、社会的に支援する、そういう施策を細かくやらない限り、この問題解決しない、こんなふうに思っているわけでございます。
水岡 俊一・議員
大変参考になりました。
|
|
|
|
| |
|
| Copyright 2004 Shunichi Mizuoka Office All Rights Reserved. |